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ことばの話 ~「大きくなる」と「小さくなる」

 ニコライ宮殿(拙宅のこと)の周囲は、長いこと空き地だった。左隣はワタクシたちより先住だが、右隣も裏もその隣もその裏も20年近く空き地だったが、数年前から家が建ち始め、いつの間にか宮殿は若い家族にぐるりと囲まれた。天気のよい日は、学童期を迎える前後の小さな子どもたちの遊び声が響く。
 「とにかく元気に大きく育っておくれ。そして、ワタクシたちのそう遠くはない未来の年金の元を払っておくれ」と、温かい目で見守っている。

 そう、子どもは大きくなるものだ。

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 身体が大きくなると、服も靴も身体に合わなくなる。成長が早いと親は大変だ。だから昔は「お下がり」が当たり前だった。あの頃は、今でいうリサイクルという概念は希薄だったので、恐らく、単なる親の節約だったのだろう。
 そういえば、母は節約することをよく「経済する」と言っていた。必要がなくなったのか、子どもたちが独立し、連れ合いを亡くしてひとり暮らしになってからの母からは聞いていないけれど、よく考えると不思議な動詞だ。母以外の人からは一度も聞いたことがないのも不思議だ。

 話を戻す。
 だから小学生の頃までは、新しい服を買ってもらうのはかなりのイベントだった。姉がいたし、姉のひとつ上に従兄がいたので、男の子の服もずいぶん着ていた。自分が好きな服を着られるようになったのは、中学校に入ってからだ。それまで着ていた服が小さくなっても、上がいるからどんどん次がやってくる。中学生になった頃、姉と体格差がほぼなくなり、さすがに男子の服を着せることに誰かが何かを感じたらしく、お下がりはなくなった。

 ここで日本語の疑問が生じる。
 子どもは大きくなるが、服は小さくならない。洗濯に失敗して縮んでしまえば、それは「小さくなった」と言っていいだろう。しかし、子どもが成長して着られなくなった服が出てきても、それは、服が小さくなったのではない。どうして「僕が/私が/あなたが大きくなった」と同義になったのだろう。

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 もしかしたら、子ども視点の表現なのかもしれない。子どもから見れば、自分が大きくなったという概念はなく、服や靴の方が、本人の意に反して小さくなったと感じるだろう。その子ども発の表現を、大人も使うようになったのだろうか。

 少し調べてみたけれど、こんな疑問をネット上に載せている記事を見つけることはできなかった。
 今度、論文でも検索してみようか。

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