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心の中での葛藤

ネガティブに自分が覆い被さるまいと必死に逃げるが、結局どこかでネガティブの力に飲み込まれてしまう。

そしてその力は割と強くて、なかなか引き剥がすことが難しかったりする。

自分の中でなんとかその感情を消化しようと試みるけど、どこか消化不良。

胸の奥に残っている感じがして、胃もたれ的な気持ち悪さが続く。

誰かに話したいと思うけど、一方でその人に悪い影響を与えたくないと葛藤する。本当に悪い影響になるかどうかはわからないけど。

結局消化できなくて、誰かに当たってしまったとしたら、そのほうがよっぽど相手を傷つけるかもしれない。

苦しいことは一人で解決できないことが多い印象。

だから誰かに依存するというか、痛みを和らげるために誰かと楽しい時間を共にするという生存方法をとったりするのかもしれない。

誰の中にも存在する漠然とした不安、悩み。

それから目を背けるという選択は、悪くない。

人といるときに、楽しいことをやっぱり共有したくなる。

それは誰だってそうなのかもしれない。

相手の近況を聞いたり、楽しかったことを共有したり、そこには笑顔があり、ある意味でそういう自然的なものに溢れていたいという思いでいっぱいになる。

不自然なものはいつだって気持ち悪い。
その気持ち悪さが良くないというわけでもない。

でも、一般的な幸せを分解してみるとそこにはやはり、自然なものが多い気がする。

適当に『ははは』と笑っている人がいたら、不自然だから、少し気味が悪いと思うかもしれない。

心の底から笑っている人に惹かれるのは、それが自然体そのものだからなのかな?とふと思った。

そしてみんなそういう自然なものに飢えていそう。

木に囲まれたカフェが好きだとか、登山をすると心がスッキリするとか。

リフレッシュするとなったらそこにはやっぱり自然がある。

自然な関係を求める。

不自然なものを消化しようとする。

行動の一つ一つには実は意味がある。

もし自分が今、落ち込んでいるなら、なぜ、どうしてこの状況に至ったのかを整理したら、見えてくるのかもしれない。

あぁ、不自然さに自分の心が揺さぶられたのかも、と。

何が自然で、何が不自然なのかを知るためにはやっぱり視点が重要そう。

どこからの目線で何を見るのか。

自分にもまだわかっていないところ。もしかしたらずっとそうやって生きるために何かを考え、時に苦しみ、時に喜びを繰り返していくのかもしれない。

ただ、暗闇の中で手探りで何かを見出そうとするのではなく、見えないなりに見るということが必要なのかな。

まだまだ見えていない。と卑屈になりすぎるのではなくて、『ここまで見えた』そこに到着した自分を素直に認めて、それでもなお、考えることをやめないというその軸が、いつかどこかで、生きる上で役に立つことがあるのかもしれないと。


この文章が、一体誰の何になるのか、わからないけど。
でもこれは自分にとって、誰かにとってもいいものだと信じたい。

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