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人への愛情が強すぎるのかどうか

それはもはや人への愛情なのか、それとも自分の欲求を満たすために相手を利用しているのか・・・・

紙一重のような感じもしないでもないが、自分の中では愛情が強めな人間なのかもしれないと思っている。

その愛情というのが、世間一般的に伝わるようなものなのかというズレとかは置いておいて。

共感力が強すぎるのか。

わたしは昔から医療系のドラマを見ることができない人だった。

例えばドラマの中で、足を怪我していて、血が出てるみたいなシーンがあったら、その場所が痛くなる。苦しんでいる人を見たら、それが演技でも心が痛くてひどく消耗してしまったりする。

それ以来、医療系のドラマを見ることはなかった、というくらいには変な人間だ。

その共感力が高い?という特徴と愛情の深さみたいなものがイコールなのかはわからないけど、もしその人が悲しそうだったら自分にできることってなんなんだろう?とか深く考えてしまうし、その人が楽しいことを望んでいるのだとしたら、その中心に自分がいないとしても楽しんで欲しいから全力で、手を差し伸べたくなったりする。

もちろんその気持ちを踏み躙られる時だってある。

でもその時その瞬間には怒りとか悲しみの感情が込み上げてくるけど、最終的には自分の中で消化するために必死にどこまでも突き詰めて考えたりする。

だからと言って、それが負担とかないし、もしそれが可哀想だと思ったりするのであればそれは違う。

それも込みで自分で、それを誰かに共感して欲しくてやっているわけではないことは確か。

あくまでそれが自分の生き方というか、それは誰かが背負わないといけないようなものでもないということ。

その思いが重いとか言われるかもしれないけど、その思いには重さは存在しない。その重圧は勝手に感じている重さでしかないから。

考えてばかりで生きづらそうと思ったんだとしたらそれはそれで正解かなとも思う。自分でも馬鹿みたいだなと思うことももちろんある。

でもその一方で、もうそれ以上考えても答えが変わらないというようなこともある。そこに関しては特にまた深ぼる必要もないからとそのままにしていたりする。

だから何でもかんでも考え尽くしてるというよりは、今この瞬間のこの人生において、重要っぽいところに重点的に力を注いでいる感じなのかもしれない。

どこまでも深く考えてしまうということが愛情の深さと思っているから、一般的な愛情表現とは多少歪みが生じて、気持ち悪いと思われたりするかもしれない。

それでもいい。

受け入れてもらえるなんてそんな贅沢なことは言わない。

でもずっと変わらない。

それが自分に対しての愛情とは違うとしても。

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