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意識と無意識



今、足にひんやりとした風が当たっている。
横を見れば猫がご飯を食べている。
背中がむず痒くなった。
鼻水が出る。
猫がこっちに近づいてきた。
外では笑い声が聞こえている。
喉が渇いたので水を飲んだ。
ゴクゴクと耳の奥から音が聞こえる。
喉に水が通った。
息を吸った、同じくらい吐いた。
近くに置いておいたパンを食べる。
ちょっと硬めで中には胡桃が入っている。
歯応えがあって噛めば噛むほどに味が出て美味しい。
鼻水が出たので、鼻をかんだ。
ゴミをゴミ箱に捨てた。
そのゴミに猫が反応した。
そしてまた胡桃入りのパンを食べる。


意識したら、たった5分でもこれだけのことが行動として示されていく。

1日何もしていなかった。多分ゲームしかしてない。

と思っていても、その1日をしっかり意識したら、濃いものになる。

忙しすぎて、セカセカと時間が過ぎ去っていく一方で、実は一つ一つ意識すると、こんなにも多くの活動を行っていることに気づくことができるのだ。

実は一つの行動に対して、しっかりと意識を向けることというのはあんまりなかったんだなということに気づき、生きていると感じることができるのは、こういう小さな行動一つ一つに目を向けることができた時なんだろうか?

そして生きづらさというものは、あまりに遠い未来に目を向けた時、あるいは過去の自分の行動に対する後悔から来ることが多い。

いずれ起きることに対して後悔するなら、今この瞬間を噛み締めて生きたほうがいいのかもしれない。

じいちゃんが死んだ時に、後悔しないようにと誓ったはずなのに、ばあちゃんが死んだ時にも同じく後悔をした。

一本でも電話してみようかな?とか何回も思ったことがあったけど、それでも結果としてはしなかった。

そんなすぐに死が訪れると思っていなかったからなのかもしれない。

思い立ったら即行動することがいいことばかりではないかもしれないけど、それでもしないよりはよっぽどいいことだと。

多分みんなわかっているんだけど、精一杯なのかな。今の自分の人生を生きるのに。

いや、仮に電話したとしても後悔はするんだと思う。
もっとこういう話をしておけばよかった、とか。何かと。

それはもしかしたら今この瞬間、この1日に意識を向けていないということが問題なのかもしれない。

無意識から得られるものはない。意識することで、どんなことでも宝になるということなのかもしれない。

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