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金持ちvs貧乏

持ちつ持たれつのはずなのに、金持ちの方がでかい顔をしている。
君たちの代わりはいくらでもいるんだと半ば脅しのような決め文句と共に労働者をいいように利用している。

まぁ、確かに代わりはいくらでもいるんだろうけど、とはいえ自分は自分だ。自分という存在の代わりは存在しない。唯一無二である。

だけど、それを混同してしまって自分自身の存在そのものの代わりがいくらでもいると思ってしまってひどく落ち込んだり、精神がやられてしまう人も中にはいる。

ここでいうところの代わりはいくらでもいるというのは、あくまで労働者という存在の代わりはいくらでもいるというところ。

それはそう。当たり前である。
唯一無二の存在が企業にいては困る。誰でもある程度のクオリティが保障されている、そういう組織を作らないと企業として成立しないから。

大きい企業に勤めて自分の能力を過信してしまってはいけない。
あくまでその力は企業の力である。自分の心までもが大きくなってしまって勘違いしてしまうこともあるだろう。

そういうふうにして心までもが買われてしまう。
心も貧乏になっていく。働いた分にそぐわない給料で満足するように教育され、少ない分は別で時間を切り売りして稼ぎなさいと言わんばかりに。

時間がない、必死に働いているけどお金もそれほどない。
ローンとか雑費で消えるお金。その度に転職を繰り返して変わらない給料。
スキルと言ってもその職場でうまく利用されて、大半の人たちも同じくらいの技量を持っている。そんなのはスキルとしては少々物足りない。

でもそうやって、自分本来の力を発揮できないように教育されている。
もし、自分の能力に気づいてしまったらその人は社会という歯車の中に収まることができないから。

支配が難しくなる。

できるなら簡単に支配しておきたい。
手がかかるのは困る、そして少ない手で大量の生産力を手に入れたい。
金持ちはそういうふうに考えている。のかもしれない。


だからこそ、発信者はもっと自分の中にある芸術を爆発させろとか、社会に抗うために戦えとか声を大にしている。

そうじゃないといつまで経っても社会の歯車のまま。

それで良い訳なんてない。

そんなのは本来の人間としての生きるというものを冒涜している。

人間は一部の誰かのために自分を犠牲にしてはいけない。

自分の人生を自分が生きたいと思う人と生きるのが人生だ。

勝手なことされては困る。

触るな、僕たちの人生に。

余計なことをするな、ただ楽しく生きたいだけなのに。

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