今あるものは、いつの日かに誰かによって作られたもの
例えば女性とか。
最初から『女性』として生まれるのではなく、女性になっていく。
これはボーヴォワールという哲学者が提唱したもの。
男性が理想とする女性像というものに当てはめられていく。
だから女性として生きるというより、女性として、女性らしく生きるべきだと教えられてその望み通りに生きていく。
女はこうあるべきだとか、男はこう生きるべきだとかそういうステレオタイプに嵌め込まれていた。
今では男女が同じ教育を受けているのは当たり前のことだが、一昔前だと、男が社会に出て経済成長の動力となるために家庭を運営する女性の力が必要であったと考える。
よって男性と女性では与えられた役割が大きく違い、教育も女性は良妻賢母になるために必要なものになっていたのだ。
今では、そのような教育の違いなどはないだろうが、世間の人たちの思考そのものも大きく変えられたかと言われたら少し疑問に思う点はいくつかある。
女性側が家庭に入って仕事はしないで生きていきたいと思っているとか、または男性が稼ぎが少ないことに嫌悪感を示していたりとか・・・
根本的な人間とはなんなのかということに関して皆がもっと真剣に向き合い、考え、そして改めないといけないのかもしれないということ。
昔は半ば強制的に依存せざるを得ない状況を作られてその中で生きていくというものだったかもしれない。今はそんな問題は先人の人たちが解決してくれて社会は大きく変化した。
それでもいまだにどちらか一方に依存しているような状態なのは、ステレオタイプ的発想と対して変わっていないのではないかということではないか?
形が変わっただけで根本的な解決にはなっていないのではないかということ。
過去にそういった問題があって、女性が立ち上がり、権利を主張し、そして世の中を変えた。それは根本から何かを変えたいと思ったからそうさせた。
当たり前になりすぎて考えすらしてもいないようなことが実はおかしくてそこを問題視している誰かが声をあげているのかしれない。
その声を聞き逃すのは勿体無い。聞くべき。
話は変わるが、ボーヴォワールは60年代の女性たちにとって憧れの的だったらしい。その生き方、パートナーとの付き合い方。
パートナーとはカフェで仕事をし、レストランで食事を摂りながら仕事の原稿の批評をしあう。
家事などの労働から解放されて、社会の一部となり、そしてパートナーと共に何かを作り上げていく。
そんな社会と繋がっている彼女がその時代の世間の人にとってはキラキラと光っていて眩しかったのかもしれない。
現在でも彼女のパートナーとの向き合い方は憧れである。
お互いの人生を全力で楽しみ、そして向上していく。
いつの時代も理想とか憧れというもの自体はその時代にあった色、形に姿を変えていつも何処かでキラキラと光り輝いているのかもしれない。
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