2023/2/16 子どもの貧困を考える

 貧困について生徒(中1)に考えてもらっている。太宰治の「魚服記」と、柳田国男の「山の人生」冒頭を読んで、なんだか戦前の話とは思えず、現在の貧困問題にそのままつながる気がしたからだ。もちろん作品に出てくる「炭焼き」という仕事は今ではもうほとんどないのだろうと思うが、働いても働いても生活が向上しない仕事ならいくらでも見つかる。

日本が抱える貧困問題は、相対的貧困といわれるものが多く、貧困といってすぐにイメージする絶対的貧困とは違う。阿部彩の説明が分かりやすい。


   第二次世界大戦中そして戦後の日本は、極端な食料不足であった。大多数の子どもたちは、餓死までには至らないにしても、いつもお腹を空かせていた。これは、絶対的貧困の典型例である。

   一方で、2011年の現在、たとえば、クラスで一人だけ給食費が払えない子どもがいる状況は、どうであろう。みんなが同じ給食を食べているとき、その子は一人、家から持ってきた塩おにぎりを食べているとしたら。これが相対的貧困である。

(阿部彩『弱者の居場所がない社会』講談社現代新書 2011.12)


厚生労働省の19年国民生活基礎調査によると、17歳以下の「子どもの貧困率」が13.5%だったという。この大部分はもちろん相対的貧困を指している。その日の食べるものや着るものに事欠くような子どもはそこまで多くはない。その点、「魚服記」や「山の人生」とは違う。ただし、相対的貧困は、目につきづらいという問題も抱えている。本人も隠そうとするだろうし、取り繕おうとすれば、不登校などに形を変えてしまう。そして不登校になると、そもそもの原因である「貧困」が姿を隠してしまう。私立学校では受験というフィルターによって「貧困」という存在自体が限りなく皆無である。

目に見えづらいからこそ、生徒たちには考える余裕のある今、向き合ってほしいと思った。当人が貧困に陥っていては、客観的に考える余裕などないだろう。

そして、案の定といっては何だが、裕福な私立学校の生徒からは、こんな意見が出てきた。

「貧困だったら、働けばいいんじゃないですか?」

「親の問題でしょ」

「努力して、能力を高めるとか、自分でできることはあるんじゃないですか?」

 もちろん、これらは一部の生徒の意見で、こういう弱者に対する強い発言は、それ自体とても勇気がいる。授業においてはありがたい発言である。なんとなく同情して終わってしまうよりもよほど考える余地がある。

 湯浅誠の著書にこんな文言があった。


たらいに水が溜まらない。どこかから漏れているらしい。さて、どうするか。

下から見ればいい。

たらいの上から目を凝らしても、漏れている箇所は見つからない。たらいの下から見れば、どこから漏れているか、一発でわかる。貧困対策と地域づくりの関係は、ここに示されている。

(湯浅誠『「なんとかする」子どもの貧困』角川新書 2017.9)


生徒には、上から目線ではなく、この「下から目線」をぜひ持ってほしいと訴えた。

 同著に、一般社団法人「彩の国子ども・若者支援ネットワーク アスポート学習支援センター」の「登校準備支援活動」が紹介されていて、印象に残った。 


「子どもが登校するためには、実はいろんな前提条件が必要です。一、宿題をする、二、着替える、三、朝ごはんを食べる、四、教材や連絡帳などの持ち物を用意する、五、余計な困りごと(弟や妹、ときに親の世話など、自分が家を空けられないと感じる事情)がない……。こういう条件が整って初めて子どもは登校できるんだけど、それがあたりまえだった人たちは、そのことがわからない。わからないから、気合いの問題だと思ってしまう」


当たり前に朝ごはんが用意されていることが、いかに恵まれたものであるかということ。努力しろというけれど、そのスタート地点にさえ立てない人がいるということ。そもそも自分自身、それほど努力してきたのか。ただ与えられた課題から逃げずに(逃げなかったことはすばらしいけれど)向き合っただけではないのか。それは努力と呼んでいいことなのか。

私の目の前の中学生が努力してこなかったとは言わないが、環境がお膳立てされた努力に過ぎないのではないかという、少し厳しい意見を伝えた。

課題のレポートを見る限り、生徒たちはこの貧困問題にしっかりと向き合ってくれている。強い意見を言ってくれた生徒も、自分の立ち位置を少しだけ動かしてくれている。思いつきで始めた授業だが、考え方の柔らかい素直な中学生に、今できてよかったと思う。

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