感性排除の作文教育


 作文教育はどうあるべきだろうか。今、職場で外部の組織を入れて作文教育をしようという動きがある。すべての授業ではないが、15時間程度、パワーポイントで作成されたスライドを使って教師が授業を行う。書かれた作文は、3回ほど外部に送られ、たぶん添削されて返ってくる。作文には添削がつきもので、少人数学級が実施されていない学校では、この添削の負担をおそれて作文の課題を出すことに躊躇してしまうという事態が起きる。書かせれば書かせるほど、生徒の文章力は上がる。そこに正しい添削が入れば、それは確かなものになる。その添削を含めて、授業自体も外部に丸投げしてしまおうというのである。実際には、スライドを流して、説明を加えるのは教師だというが、スライドを加工することはできず、内容を否定するような説明ももちろんできない。
 作文の指導内容は、感性による文章ではなく、意見の違う他者に論理で伝えるというもの。文科省が「高等学校学習指導要領(平成30年告示)」で導入した「論理国語」で目指しているものと同じだと考えていい。これだけだと文科省の指導に沿っているし、問題なさそうだが、あまりに感性の部分に対して排他的なスライドに、職場からは否定的な意見もあがっている。感性を排除した作文とはどういうものだろうか。
 「論理国語」が導入されると決まったときは、論理と文学は分けられないなどと、さまざまな批判意見が出たが、学習指導要領に書かれていることはそれほど変なことではない。実際、文学重視の傾向は、私の職場にもあり、評論をもっと読ませたいという気持ちもある。ただそれは、文学を排除することとは違う。文学を論理的に読み取ることもできるし、ガチガチに論理的に書かれた文章を文学的に解釈するということもできるだろう。
 作文も、論理的に根拠を示して、誤解なく他者に伝える技術はもちろん必要だろうが、そこに自分なりの表現を加えることを許容しないならば、はたして魅力ある作文ができるだろうか。
 また、外部に丸投げということに、教師としての良心がチクチクと痛む。作文の能力をあげるにはどうすればいいのか。体系だった作文教育をどのように構築するか。そこに力を注ぐ前に、お金を出して外部に丸投げというのでは、教師がそこにいる意味がない。
 私なりの作文教育を形にする時機がきたと思って、勉強をはじめようと思う。

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