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人間とは退屈する生き物である。 「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)


忙しい人は偉い人

という、薄っすらとした、しかし多くの人が賛同する固定観念がある。

忙しい人は仕事に打ち込んでいる人、しっかりと働き収入を得ている(収入を得るために働いている)人であるため周りから労いの言葉をかけられる。

逆に。
暇だな〜、と言う。するとその人は充実していないのか、もしかして仕事すらしていないのではと思われ社会から疎外されているような含みがある。

退屈だ、という言葉はあまり言わない。

退屈は暇な状況にのみ起こるのか。
忙しい人は退屈なのか。
退屈な仕事をしている人は、退屈なのか、暇なのか。

本書は、「退屈学」という分野でなぜ人間は退屈するのか、退屈から抜け出す方法を論じている。
そもそも退屈学という分野があること自体知らなかったが、様々な哲学者や時には生物学者など様々な観点を批判しながら独自の答えを導いている。


暇と退屈の違いとは

まず本書では暇と退屈の言葉にこのような定義を設けている。

暇:余った時間があるという客観的条件
退屈:何もすることがないときに起こる感情や気分などの人間の主観

暇である条件下では必ずしも退屈ではなく、また退屈だからといって必ずしも暇ではない。つまりこのような状態がある。
・暇だし退屈
・暇だが退屈ではない
・暇ではなく退屈でもない
・暇ではないが退屈

暇と退屈ができるまでの歴史

定住革命

1万年以上前、人類は遊牧民として生活していた。氷河期が終わり森林が増えると視界が悪くなる。従来の狩猟による食料確保が難しくなる。仕方なく、魚類や植物を頼るようになった。これらは貯蔵する必要がある。そのため遊動生活から定住生活にシフトした。これが定住革命。
定住革命により2つ大きな変化が訪れる。
・所得するという概念ができ、財の格差が生まれた
・今まで遊動生活で使っていた情報処理能力が余る(定住地の確保、狩猟、探索能力)→脳の使い所の変化(ポイント)

労働と余暇

財の格差が生まれることで、財を見せびらかす人が増えた。富を持つものは時間を持つもの(=暇な人)と認識されていた。
そのような有閑階級は暇を示すために使用人を雇ったり、アート分野などで消費していた。筆者が言うには、有閑階級は暇を生きる術を知っているため、暇だが退屈ではないという。

次第に資本主義制度が広く浸透し、暇がない労働者にも余暇が与えられる。(しかしこの余暇も労働でベストパフォーマンスを出すために与えられた余暇、つまり資本主義の中の余暇である。)労働者は有閑階級と異なり、暇を生きる術を知らない。したがってレジャー産業や広告などの外部からの刺激により余暇を消費する。消費社会の到来である。

消費と暇と退屈

消費と同じような言葉で、贅沢、浪費という言葉があり、混同しがちなこれらの言葉を筆者はこう定義する。

贅沢:最低限以上のものを手にする →豊かさを感じる
浪費:必要以上にものを吸収する →限界がある
消費:観念や意味を吸収する →限界がない

資本主義の浸透と余暇の付与により消費社会ができあがる。生産者主体で最新のものを消費することで満足を得る。いや満足するまもなくまた新しい消費をする。

消費は限界がないため、消費しなければいけないという常識になる。
労働は生き甲斐という概念の消費になり、
余暇は非生産的時間の消費になる。

時間を消費する、ということこそ退屈につながる ということ。


退屈の種類

ハイデガーによると、退屈の種類は3つある。
(あまりうまくまとめられなかった)

第1形式
時間に引き止められ、やることがない状態。
暇であり、退屈であるということ。
日常的にやるべきことがある人(仕事の奴隷)が陥る。
この状態のときに退屈の気晴らしをする。

第2形式
暇ではないが退屈している状態。
気晴らしと退屈が共存している。

第3形式
なんとなく退屈。
この状態の時には自由を求めて決断する。


人間が退屈から逃れられないメカニズム

人間は基本的には第2形式(暇ではないが退屈)で生きている。
仕事はしているし、休日には買い物や旅行などで充実した仕事をしている。
しかしなんとなく退屈だという感情がある。

その原因は環世界というものにある。
環世界とは生物学の言葉で、それぞれの世界では流れる時間や空間が異なるということ。例えば、同じ1秒でも人間とハエとでは体感時間が異なる。ダニはたった3つのシグナルだけで生きている(この話はとても興味深かった)。

人間は環世界を自由に行き来することができる。
オフィスでは数字に躍起になる一方で家に帰ると赤ちゃん言葉で子供と戯れる。勉強すれば宇宙工学にも明るくなれる。
環世界の移動能力が人間に特有のものである一方で、環世界を自由に移動できるからこそ退屈してしまう。一つの環世界に留まることができないのが人間である。

環世界を移動している状態が第2形式である。

その退屈から抜け出したいという衝動から自由を求めて決断する。(第3形式)

はじめはその決断を信じて行動していることで没頭し充実感を得ることができる。しかし次第にその決断の奴隷になっている。(第1形式)

これが退屈から逃れられない構造である。


筆者の結論

筆者の結論は2つに分けられる。

贅沢を楽しむこと

人間として生活する以上、第2形式の状態を生きることを覚悟する。気晴らしと退屈が入り交じる状態で、人間らしく生きるためには生活に纏わりつく消費と距離を置く。そして消費から贅沢へと自分の意識をシフトさせる。つまり有閑階級のように、改めて余暇を楽しむことで暇であるが退屈ではない状態を目指す。

思考すること

人間らしい生活は退屈とは切り離せない。ならば動物的に生きてみることで退屈から抜け出せることができる。
どういうことかというと、人間とは習慣をつくり環世界に入ることで考えることを少なくする(=退屈する)生き物である。その環世界(=いつもの日常)に見慣れないもの(外部刺激)があると人は思考せざるを得なくなる。
そこで一つの環世界に浸ることができるその時に動物的になる。定住革命前の人類がそうであったように。
つまり思考を止めない第3形式の状態に常にいることで退屈から抜け出せる。

以上の結論のあと、思考する対象を自分ではなく世界に広げることでマルクスの「自由の王国」ならぬ「暇の王国」という言葉で締めくくっている。


感想

消費が退屈を生む。退屈が消費を生む。

退屈の形式と環世界を理解することで本書の理解度が高まると思うが、100%理解するには根気がいるため、ある程度の理解で充分だ。

消費が人間を支配しているのは明白だ。街中には広告が溢れていて、スマートフォンには、自分にピッタリの商品をAIが提案してくださる。

人間は何かをしないといけない。大昔に遊牧民として備え付けられていた能力を定住生活によって他のことに使わざるを得なくなった。

大人になったら仕事をしなければならないし(その仕事も世間が羨むような充実した仕事につくべきだ)、休日は買い物をして美味しいご飯を食べる。そのようないいね!な生活を求める。

少し卑屈になったが、つまりそういうことだろう。

自粛生活になってAmazonや任天堂の業績が伸びたことも、人間は何かしなければいけない生き物で、その第2形式に根幹にある消費によって経済は回っているし、自分自身も回す側になっている。


人間にとってのベストな状態とは

この本は退屈ということに対しての先人の知恵を批判しながら深い分析が行われているが、読むと「退屈=悪」ということではないと分かる。

退屈することは人間として仕方ない当たり前のことで、どのように退屈しているかを知ることから始まる。

僕は第3形式の決断の状態がずっと続くことが理想だと思う。その決断が誰かによって定められたものではなく、自由意思によるもので没頭し続けることができれば幸せなのか。


思考から逃げるな

筆者が最後に言うように、思考を止めてはいけない。

哲学は自分を掘り下げる学問だとよく感じる。自分自身の事を真面目に理解している人はどのくらいいるのか。思考から逃げない、退屈と向き合う思考によりものの考え方が少し変わるだろう。


こんな人におすすめ

ずっしりとした本ですが、読者にわかりやすい説明を与えながら、次々と浮かぶ疑問を先回りして解決する文章に踊らされ、気が付いたら読み終わっていました。
ぜひ読んでみてください。

・現在の社会の仕組みにぼんやりとした疑問を持っている人
・消費社会に飽きている人
・哲学批評が好きな人
・暇で退屈な人


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