言語は思考を規定することと、最近本を読んでばかりなこと
言語は思考を規定する、という言葉がある。
思考がクッキーの生地だとしたら、言語はクッキーの型だ。
言語は思考を表すパッケージだから、どんな言語で思考を表すかによって、思考のあり方が決められてしまう。
よく、英語で考えるか、日本語で考えるかで内容が違うという話を聞く。
私は残念ながら日本語でしか考えられないので、この感覚はうまく説明できないけれど、きっと、「いろんなクッキーの型をもっている」みたいなことなんだと思う。
何も外国語だけの話じゃなくて。
例えば、働いている人にも同じことが言えるかもしれない。
エンジニアっぽい話し方、コンサルっぽい話し方、営業っぽい話し方。
使う言葉や話し方によって、考え方の癖が形成されているはずだ。
別の分野を専攻している人の言葉遣いを見ていると、「それをそう表現するのか…」と痺れることがある。
例えば、「残滓」とか「円環的時間」とかさらっと言われると、ぞわぞわする。
私は長いこと今の研究分野に浸かってきて、普段の言葉遣いも、その分野で頻出する言葉に影響されている。
表現できることもワンパターンになってきていると感じている。
◇◇◇
最近になって、たくさん本を読んでいる。
小説やエッセイ、読みやすい学術書なんかだ。
ここの所、どうして本を読んでばかりなのか考えていたけれど、自分の中にない表現のストックがほしくなったのかもしれないと思い至った。
自分が頻繁に使ってきた言葉でできる言語化に飽きてきた。
これまで形にできなかった、クッキーの生地のまま放置していた部分を、切り取ってくれる型が欲しい。
新しい型で、これまでできなかった形のクッキーを作りたい。
言葉のストックを増やすには、まずインプットからだ。
そういうわけで、本ばかり読み漁っている。
読んだら考えて、考えたことをnoteに書くなり、友人に話すなりして言語化する。
疲れると言えば疲れるけれど、インプットとアウトプットのサイクルを回すのは気持ちいい。
今は考えすぎないようにしているけれど、インプットとアウトプットのサイクルで身についた力が、修論にも活かされるといいな。
最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。