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もっとがんばれるはずじゃないか

「もっとがんばれるはずじゃないか」といつも思っている。
図書館からの帰り道、本を突っ込んで重たくなったリュックを背負いながら。
パソコンに向かいすぎて痛くなった手や目をさすりながら。
読みたくて読めなかった論文を眺めながら。

私が人生で一番ストイックに取り組んだのは間違いなく大学受験だ。
土日に遊びにいくこともなく、勉強部活勉強勉強部活みたいな日々を過ごしていた。
文字通り雨の日も風の日も雪の日も、家から徒歩3分のバス停からバスに乗って学校に行った。
雪がしんしんと降る早朝に、薄暗い中で動く除雪車やバスのヘッドライトがいたくきれいに見えたことを今でも覚えている。

「もっともっとがんばらなくちゃ」と思っていた。
そうしないと成績が届かないから。
いくらがんばっても成績は届かなくて、未練たらたらだったけれど、私の脳みそでは届かない場所だったのだと今は思えている。

そうやって諦めた代わりに、「もっとがんばれるんじゃないか」という想いだけ、亡霊のようにいつまでも残っている。
その想いに責め立てられるようにサークルにバイトにゼミに院試に卒論に講義に研究に取り組んできたけれど、私はどれだけがんばっても潔癖さの面で高校生の頃の私を超えられない。
いやもう超えるべき私など存在しないのかもしれない。
ただ美化された記憶の中の自分を追い求めているだけで。

高校生の頃の私が最高の自分だったとは思わないし、自分が何もがんばっていないとも思っていない。
でもいつもどこかで自分を責めている。
何もかも打ち捨てて1つのことに集中できない自分に呆れている。
ぶっ倒れるまで作業を続けられない自分に絶望している。
癒しや気分転換を求める自分を情けなく思っている。

私は何と戦っているのだろうか。
誰に認めてほしくて苦しんでいるんだろうか。
何を成し遂げたら報われた気持ちになれるのだろうか。

変化の激しい世界の中で、自分だけは自分の味方でありたいのだけど。
私の味方をしているのはいつも私以外の誰かだ。
自己肯定に欠けたまま努力を続けたって健全でなくて、それは緩やかな自傷行為だ。
わかっているのだけど自己肯定のやり方がわからない。

自分で自分を大切にする、ただそれだけのことがどうしてこんなにできないのか。
そうやってまた自分を責めている。
過ぎた自責が毒になることを知っていながら、それでも尚止められない。

何かを成し遂げる人は自己肯定に満ち溢れているから、私は何も成し遂げられずに死ぬような気がしている。
環境でも運でもなく、他でもない自分自身のせいで余計な苦しさを背負っている。
自分を楽にできるのは自分だけなのだけど、いつか楽にしてあげられる時がくるのだろうか。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。