「なぜ?」を追いかけるために

物事を多面的に見よう
感情的になるのではなく、「なぜ」そうなっているのかを考えよう

そんなことを長い間ずーーーっと心がけ続けていたから、こんなご時世でもいやに冷静だ。

「社会科学や人文科学はなんのためにあるのか」と考えたとき、ひとつの答えは「ものごとを多様な側面から捉えるため」だと思う。

例えば、Buzzfeedのこちらの記事。

あらゆる判断基準が医学に基づいたもの、すなわち「命が守られるか、守られないか」になっている現状を危惧した内容。

補償として得られるいくばくかの金銭と引き換えに外出の自由を失って、それで本当にいいのか、命を守るために必要だとしても、そんなに簡単になされていい決定なのか

この記事を読みながら、「そうそう、こういうのが読みたかった」と思った。
「こういうの」とは、「これがいいに決まってる」に対して、「ちょっと待って、こういう視点からも考えてみようよ」と、新しい視点を提示してくれるものだ。

東京に来てから、「東京もロックダウンすべき」「早く緊急事態宣言をすればいいのに」という不満や怒りの混じった声をたくさん聞いて、正直その度に辟易した。
それよりも、「どうして(必要だと言われているにも関わらず)ロックダウンや緊急事態宣言をしないのか?」という問いの方が重要だと思っていたから。

海外のような対応をしないのは、法律や政治のしくみ、政府の体制、もしかしたらその他にも、なにか社会的な制約があるからかもしれない。
発動した場合のリスクがとんでもなく大きいから慎重に検討しないといけないとか、いろいろな機関から承認を得ないといけなくて時間が掛かっているとか、ざっと想像しただけでもいろいろな可能性が思い浮かぶ。

そしたら実際、法律の都合で、先にロックダウンしている都市のようにはできないことがわかった。
ああ、そういうことね…と納得すると同時に、現状をもっと高い解像度で解釈する力がほしいと思った。

わたしは公衆衛生や政治、公共政策、社会保障には明るくないから、政府がどうして今みたいな対応をしているのか、これまでの対応はどのように評価できるものなのか、よくわからない。
よくわからないのに、不安や不満に飲まれて否定ばかりしたくない。

「こうすべきだ」と明確な意見をもっているのはいいことだ。
でも、それと現実が反していたとき、「どうしてこうしないんだ」と不満を言い、「これ以外だめに決まってる」と他の選択肢を切り捨てるのではなくて、「なんでファクトはこうなのか?」と考えていたい。

今回のことで言えば、公衆衛生や公共政策なんかについて学べば、何かわかるのかもしれない、と思う。
それなら学んでみようか、とも思う。
こんな風に素朴な「なぜ?」を解消したくなったときのために、学問はあるのかもしれないと思う。

まあ、自分がズレてるのはわかってるから、こんな思考回路を他人に押し付けるつもりはないけどさ。
1000万の人が住む大都会トーキョー、ひとりくらいこんなやつがいたっていいんじゃないかな。
わたしは明日からも、予防のためにできることをしっかりやって、考えたいことを考え続けるよ。
外出を制限されても、頭の中は制限されないんだから。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。