映画解読『ドリーム・シナリオ』(ネタバレあるのでもう見た人向け)
解読も何も映画なんか見たいように見ればいいじゃんと思うんですが、まぁとはいえこの『ドリーム・シナリオ』、A24らしくなかなか凝った、というよりも捻くれた作りになっているので、なんだかよくわかんなくてモヤった人も多いかもしれない。ということでせっかくだし(何が?)モヤりを晴らすための『ドリシナ』解読記事を書いてみる。一応前もって書いておきますが以下の解読テキストは「こうも読めるよ」というものであって、「これが答えだ!」てなもんじゃありません。まぁ参考程度に話半分でお読み下さい。てか映画感想なんて全部そうだと思うけどね。
※以下の文章は既に映画を見た人向けのものなのであらすじなどはめんどくさいし書いてません。あらすじが必要な人はすいませんが別のところ探してみてください。
何の話なの?
狭い意味ではツイッター炎上とか差別とか資本主義の話。広い意味では現代先進国社会の話。いわゆる社会風刺ってやつ。
なんでみんな主人公を夢に見る?
最初の何人かはマジで偶然夢に見たか、あるいは夢に見たと思い込んだ。だけどそれが主人公の知らないところでネットミームになっちゃって、その後に調子に乗った主人公がテレビに「みんなの夢に出る人」として出演したこともあり、本当にみんなの夢に出るようになっちゃった。
夢の記憶というのはとても曖昧で、後から思い出そうとしても決して細部が正確には脳内に再現できないけど、それを理性が勝手に補完して「こんな夢を見た」とか思い込んじゃう。この映画の元ネタはTHIS MANという都市伝説もしくはネットミームで、それはSNSで一人の女の人が「こんな顔の男がよく夢に出てくる」とか変な顔の男の似顔絵を投稿したら「それ私も夢で見た!」とか言い出す人が続出した事件(?)がベースになってる。みんなの夢に共通して出現する怪人の存在は科学的には少なくとも証明されていないので、これは事実ではなく、脳みそが「こんな顔をたしかに見たぞ!」と補完しちゃった結果と考えるのが妥当。
この事件は英語圏で起こったが、劇中でも言及されるようにアメリカには『エルム街の悪夢』という夢の中に現れる殺人鬼(フレディ・クルーガー)の出てくる大人気ホラー映画シリーズがある。また集合的無意識説(すべての人類の無意識には共通する「型」があるという説)を含むユング心理学もアメリカでは強い影響力がある。これらの記憶や知識が重なって、みんなの夢の中に出てくる男THIS MANというものが生まれたんじゃないかと思う。
主人公を夢に見るのは女の人が多かったのはなんで?
もっぱら女の人たちの間で広まったTHIS MANを下敷きにした話だからというのが一つと、もう一つはユング心理学ではアニマとアニムスという概念があるので、たぶんそれを踏まえて。
ユング心理学は男女二元論がベースになってて、男の人の心の中にはアニマという女の人のイメージがあり、女の人の心の中にはアニムスという男の人のイメージがあるってことにしてる。このアニマとかアニムスとかは人によって微妙な違いはあるけど基本的には全人類に共通するもので、アニマは受動性とか優しさの要素、アニムスは積極性とか勇気の要素を持ってる。
ユング心理学ではこの無意識にあるアニマとかアニムスとかと意識の和解とか融合が課題になるけど、それはまぁ別の話なのでどうでもよし。女の人ばかりがこの映画の中で主人公を夢に見るのは彼が男だからで、ようするに女の人たちが持ってる男イメージ=アニムスが投影されて具体化されたのが夢の中の主人公。夢の中で主人公に荒々しく抱かれてめっちゃ興奮したって言う広告代理店の若い女の人が出てくるけど、それはたぶんアニムスの主要素である積極性が表れた。
ちなみに個人的には、ユング心理学は面白い理論だけどちょっと科学的ではないし考え方が古いね…男女二元論とか…と思ってます。
なんで夢の中の主人公は急に凶悪化した?
夢の中の主人公は最初「なんもしない人」だった。それは彼を夢に見る人たちがこの人をそう思ってるから。でもある日、むかしの学友が主人公の提唱した「アンテリジェンス」という概念を使った論文を発表して学会で話題になって、本当は自分でそのアイデアの論文書いて注目を浴びたかった主人公は「アイデアを盗まれた!」って家でめっちゃキレる。それを主人公の娘が見てて彼女は怖い思いをした。そして夢の中に出てくる自分の父親(主人公)も怖いことをした。そのことをクラスで話したりツイッターなんかでシェアしたので、夢の中の主人公は怖いことをする人、というイメージが広がり、みんな自己暗示で主人公が怖いことをする夢を見るようになった。
その中には実は怖い夢を見てない人もいるかもしれない(広告代理店の男は主人公を夢に見たとウソをついていた。理由はそう言えば主人公に気に入られるかもしれないから)。本当は主人公の怖い夢なんか見てなくても「こんな超怖い夢を見た!」とツイッターなんかに投稿すればバズるので、バズりたくてそう言ってるだけの人もおそらくいて、集団恐怖を加速させた。怖いものほどバズるの法則は、大きな災害が起こると必ず人々の不安を煽るデマ(もっと大きな地震が来るとか、外国人窃盗団が被災地に入ったとか)がツイッターなんかで劇的にバズることが証明している。
ノリオって本当に人の夢に入れるの?
入れたら一企業の商品なんかに収まってなくて世界的な大発見なので、そうなっていないということはノリオは科学的に証明されていないウソ科学商品ということ、だからノリオをつけても人の夢なんかには入れない。映画の最後で主人公がノリオをつけているのはまた人々の夢に入ってバズりたいという心情の表れ。最後の場面は妻が見ている夢ではなく、妻から「こんなあなたを夢で見たい」と言われた主人公の、その記憶をもとにした夢。切ないですね。
なんでノリオが出てくるの?
この映画の監督の前作『シック・オブ・マイセルフ』はSNS社会での承認欲求の暴走を扱っている点で今作と共通する。その『シック・オブ・マイセルフ』はさまざまな「被害者」を演じることで主人公がネットでバズろうとして、一方その恋人は有名になって金を儲けるために盗んできた家具を展示することを「現代アート」と屁理屈言って売り込み、本当に「泥棒行為はアートなのか?」みたいな特集がアート雑誌で組まれて注目を浴びちゃう(ただしその後に当然逮捕)。
『ドリーム・シナリオ』のノリオはこの『シック・オブ・マイセルフ』に出てきた「被害者の承認欲求」と「金儲けのためなら手段は選ばず」という二つのアイデアをたぶん合体させたもの。つまり、主人公の怖い夢を見たと言って主人公を非難していた「被害者」の学生たちが、その被害体験を宣伝に利用してうさんくさいっていうかほぼ詐欺な新規事業を始め、金儲けをする。それが現代社会の人々の姿だという皮肉。
最初の方に出てくる動物の話の意味は?
これからこの映画がどういう方向に進むのか、どういうことが描かれるのかを暗示してる。主人公が講義で話す「シマウマの模様は群れに隠れて捕食者から逃げるための擬態」は無名の人でいればいろんな攻撃の対象にはされないということ、逆に言えば有名になると絶対に攻撃の対象になってしまうということ。「メスの気を惹くために派手な模様にする動物もいる」は主人公が本心では有名になってモテモテになりたい願望を持っているということ。アリ社会があたかも全体で一つの大きな知性を持っているように見える現象を指す(らしい)「アンテリジェンス」は、みんなバラバラに考えてバラバラに行動しているはずなのにツイッターとかやってる人は結局みんな同じ方向を向いて同じこと(主人公の夢)を考えたりするようになるみたいな、そういうSNSの現象に対する皮肉。
なんで主人公がニコラス・ケイジ?
ニコラス・ケイジって英語圏のSNSでネットミーム化してていろんなコラ画像とか作られたりしてて、それを本人は良く思ってないと二年くらい前の借金完済記念インタビューで答えてる(イジられキャラっぽく扱われるのが嫌らしい)。更にその数年前には出演作『俺の獲物はビン・ラディン』が日本公開される時に配給が宣伝目的で「うまい棒 ニコラス・ケイジ味」っていうニコラス・ケイジの顔が入ったうまい棒を作って配ろうとしたけど、ニコラス・ケイジ側に怒られて中止になったこともあった。自分の知らないところで自分の顔やイメージが勝手に使われたり作られたりっていう状況の気持ち悪さをニコラス・ケイジは体験したので、それがこの映画の主人公に選ばれた、もしくは出演を希望した理由っぽいが推測。
おわりに:ところでこれは差別です
主人公がダイナーで朝飯を食べていると店の人から「みんなが不安がってるから出てってください」と言われて、断ると店にいたコワモテのオッサンに(主人公が挑発した結果)殴られる。主人公がたとえばチェーンソーを持ってメシ食ってたらそう言われても仕方が無いけど、主人公はただみんなに夢に見られているというだけで、何も悪いことはしてない(少なくとも見ず知らずの人に殴られるようなレベルのことは)
だからこのシーンは主人公を怖い人だと「思っている」人たちが、あくまでもそのイメージだけに基づいて、主人公を排除するシーンということになる。これは差別行為以外の何物でもないのだが、ネットで感想を見るとこれを差別だと書いている人が見つからなくてびっくりしてしまった。もし主人公が黒人とかアジア人だったら「これはすごい差別だな」ってみんな思うと思うのだが、白人のオッサンだと同じことをされても差別だと思ってもらえないらしい。
演出がふざけているので笑えつつもストーリー自体はなかなかコワい映画だが、本当にコワいのは差別を差別と理解できない、差別を受ける人の属性でそれを差別か差別じゃないか無意識にジャッジしてしまう、この映画の観客の方なのかもしれない。