ゆる~く読み解く映画『ドライブ・マイ・カー』
※以下、2021年12月に劇場で観たときに書いたブログ感想の転載になります。わかった上でごらんください。
色々と思考を促す映画だったのでなんかすごい賞を獲りそうだからその前に話題に乗っておこうという最高にダサい観客たちにその一員として混ざって観てきた帰りの電車で脳をフル回転させてその回転がもう止まろうかというところでひとつアッと閃いたのがこれって昔の映画だったら5分1シーンで済ますようなことを、とまでは言わなくとも90分あれば描くに充分なテーマを迂回して迂回して迂回して迂回してその倍の時間を掛けてやっている映画だと思った。
もちろんその迂回は無駄なものではなく映画を豊かにしているし多声的な映画であるから中心的なテーマをひとつ観る側が設定して映画に一本筋を通すのも実はあまりよろしくないというか、このような映画の体験を貧しくする行為だろうとも思うのだが、といってこの迂回を旅路としてすんなり(風景以上の意味のないものとして)受け入れてしまえばそれこそ迂回の豊かさを取りこぼすことになる。
まぁ映画に倣ってゆっくり迂回しながら感想を書いてくか。今日は珍しく章立て構成のドライブ気分ダラダラ感想。ぶんぶぶ~ん。
環境音と眠り
フランスの天才監督ジャック・タチの『トラフィック』は車のエンジン音を主軸に車社会のノイジーな環境音が織りなすサウンドスケープが素晴らしく、車文明が持つ暴力性をさながら子供部屋の狂騒に変えて遊び倒してしまう唯一無二の傑作だが、『ドライブ・マイ・カー』も環境音主体のサウンドトラックが最高で、こちらも車のエンジン音が主軸になるがその中断と再開のリズムが心地よく子守歌のようである。
加えてここでは演劇が題材になっていてその読み合わせで主人公の演出家・西島秀俊は岡田将生ら俳優たちに棒読みを要求する。この俳優たちというのは多国籍で使用言語もバラバラ。中には韓国手話の人もいて、オフの場面で年配の俳優たちが「悪い意味じゃなくて他の国の言葉で棒読みを聴いているとなんだかお経みたいで眠くなっちゃう」というようなことを言うように、こちらも睡眠導入作用あり。俺は映画を観ながら眠るのは受動と能動の間で偶然と無意識に半ば身を預けつつも映画が観たいから意識的に抵抗をしたりもする、という形で自分だけの映画体験を作り出すたいへんよい行為だと考えているので、車の眠さと棒読みの眠さのダブル睡魔が交互に襲ってくるこの映画はもうどこで寝ようかどこで寝ようかという感じでマジよかったです。ちなみにまどろみながらも映画を見続けようやく睡眠が訪れたのはかなり終盤の岡田将生の告白の場面でした。
容器と鏡
棒読み本読みを西島秀俊は相手の台詞を覚えるためだと説明する。最初から感情を入れて芝居の練習をすると自分の芝居のスイッチとして相手の芝居を捉えてしまう。まずは自分を他の俳優たちとまったく同一の地点、棒読みに置いて、全体の台詞の流れを覚えることで相手の芝居を尊重できるようになる。ここでは中身のない単なる容れ物として人間を捉えることで逆説的な人間性の回復の可能性が探られる。西島秀俊は自分がやるはずだった(と周囲に思われていた)「有害な男らしさ」を放つ役柄を別の俳優に与えて驚かれるが、それは彼が密かに罪悪感を覚えている自分の「有害な男らしさ」を他者に投影して断罪するための行為とも取れる。西島秀俊を含めた容れ物としての俳優たちはお互いに交換可能な存在であり、そのことでお互いにお互いの光も闇も反射する。
仕事と連帯
この映画ゴールデンなんとか賞とかアカデミー外国語長編映画賞ノミネートとかアメリカの映画批評界で快進撃が続いているそうで村上春樹のネームバリューは偉大っすなーとか半分ふてくされて思っていたが実際に映画を観たら村上春樹の名前がなくてもアメリカ人好きそうだなって思った。ここに出てくる人たちってみんな仕事をするんですよね。それも粛々とプロとして自分の仕事をする。で余暇は仕事仲間とのコミュニケーションに充てたりする。労働共同体っていうのを作って、その中で一人一人が容れ物であり鏡でもある人間になる。で全体で何か一つの大きなもの(この場合は舞台)を作り上げながら一人一人が成長したり変化したりする。この労働信仰はハンナ・アーレントが提示した「人間の条件」と共通するところが多く、アーレントがいささか法外な評価を受けている(と俺が思っている)アメリカにはよく馴染むものだろう。労働は障害や人種の壁を越える的な価値観も。
演劇論
西島秀俊は俳優たちに棒読みを指示するがこの映画では演劇の場以外での対話も棒読みで統一されていて、そのことで演劇の内と外の区別がなくなる。オーディションのシーンなどはわかりやすいがその台詞は単に演技として(台本にあるだけの台詞として)言っているのか、それともそこに何かしらの含意を込めて特定人物に向けて言っているのか、その判断ができないので何気ない台詞や場面も緊張感を帯びる。こうした緊張は西島秀俊の夫婦関係にも延長されて、そこではお互いが棒読み調の言葉の裏にある含意を読み合うことで、表面上は穏やかな夫婦生活と見えても心の底では二人とも疲れ切っている。西島秀俊が棒読みの本読みから始めて自分たちの演劇を作り上げていく過程は、内部崩壊した夫婦関係の代理再生の過程でもある。
録音機械
西島秀俊と霧島れいかの夫婦はお互いを自分の声の録音機械として使っている。テレビ脚本家らしい霧島れいかはセックスの後や寝起きに傍らの西島秀俊に思いついたドラマのプロットを話す。それを西島秀俊は記憶して後で霧島れいかに話す。霧島れいかは自分の言ったことを覚えてないと語るがそれが本当かどうかはわからない。演出家兼俳優の西島秀俊は台詞を覚えるために相手役の台詞を霧島れいかに棒読みでカセットテープに吹き込んでもらう。車で稽古場などに向かいながら西島秀俊はこのテープと台本通りに棒読み対話をする。ここではお互いを声の容れ物として扱うことでコミュニケーションを保とうとする夫婦の姿が浮かび上がる。
声と手話
俳優たちの中には一人韓国手話を使うろうの俳優がいる。声が、とくに棒読みの声が指向性をあまり持たずその場にいる全員に均質に伝わるのに対して、手話は特定の誰かに向けて使われ、受け取る方が話者に注目することで初めて伝わる指向性の高い言語である。映画の中でこの違いが意味するものはおそらく癒やしではないかと思う。声は、それが指向を持たないことによって暴力性を帯びる。岡田将生はオーディションの場で声を張り上げで相手役の俳優に迫るが、そこで表面的に行われているのは岡田将生と相手の声のやりとりでも、岡田将生の目的はその声で自分を演出家の西島秀俊にアピールすることであり、同時にまた相手に対する強迫的な誘惑も滲ませるが、それを誘惑かともし問われれば「これはあなたではない人にアピールするために発せられた言葉です」と岡田将生は逃げることができるし、アピールが過剰だと咎められれば「これはあなたではない人を誘惑するために発せられた言葉です」と逃げることができる。手話話者はこの逃げ手段を使用できない。ゆえに手話の対話は音声に比べて誠実で裏表のない、それゆえに相手に安心感を与えるものとなる。
有害な男らしさ
岡田将生が体現し、また西島秀俊によって体現させられる有害な男らしさの解体もまた、この映画がリベラルの多いアメリカの映画批評筋に好感を持たれた所以だろうか。有害な男らしさの解体は最初、西島秀俊がその役柄を譲ることによって行われ、次いで長年自分でしてきた車の運転を小柄で年下の女性ドライバーに任せることで行われ、棒読みが感情の噴出(泣き)で破綻することによってなされる。未見だがこのへんクリント・イーストウッドの『クライ・マッチョ』とも通じるかもしれない。ピカピカの愛車というのがそもそも男らしさの象徴である(ラストはイーストウッドの『グラン・トリノ』を彷彿とさせる)
ダークツーリズム
巨大災害の被災地や過去虐殺のあった場所など人類の負の歴史の足跡を辿るダークツーリズムは現代社会が隠蔽する死を現代人に突きつける。この映画の中では平和記念公園近くの広島のゴミ処理場にあるエコリアムと名付けられた自由見学部分、北海道の土砂災害の現場を巡る。前者は原爆の記憶の想起させるのみならず都市のゴミの処理過程を見せることで間接的に生と死のサイクルを暗示する、後者はそこに線香としてのタバコを立てることで被災地であり慰霊の場にもなる。
死と癒やし、そして他者への無関心
さて、いろいろ迂回してきたが、この映画の中心的なテーマというのは死と向き合うことで、死の乗り越えでも逃避でもなく、まずそこに死があるという現実を見つめることが主人公の西島秀俊にはできない。昔の映画なら90分でと書いたがそれは昔の映画なら少なくとも死の直視はその範囲で絶対にできるからで、多くはその上で死を乗り越えるか死から逃避するかあるいは死に飲み込まれるか決着がついても90分で収まるし、死の直視は映画の前提条件なのでそもそもテーマに浮上しないこともある。それを『ドライブ・マイ・カー』は3時間かけてやっている。
流行語(?)で言うところの「寄り添う」映画かもしれない。死を見つめるのは大変な人にとっては大変なことです。でもそこにはやっぱり日本社会全体のフィルターバブル志向…自分と自分たちだけの居心地のいい世界に引きこもろうとする傾向が少なからず反映されているようにも思えて、死との対峙というテーマでこの映画を観るならそれを通して日本社会の現況を映し出したことはすごいと思う反面、その弱さに対して同情的で、弱さが死を視界の外に追いやることで極限の暴力としての無関心を招くことの危険性を、手話が醸し出す癒やしのムードが糊塗してしまう作りには何か非常に嫌なものを感じた。
この表面的なやさしさとリベラルっぽさにはもう少し注意が払われてもいい。たとえば、劇中で容れ物としての人間になれたのは西島秀俊によって選ばれた人間であること。そこにはその人個人の様々な性質や状態によって容れ物になることができない、他の誰かの代理になることのできない人間はいない。脳性麻痺で発音が健常者のようにはできない人でもそれを逆に個性として俳優になることはできるし、感情の起伏が激しく棒読みでは喋れない酒飲みでも舞台に上げれば素晴らしい芝居を見せるかもしれないが、そうした人間は周到に排除され、その上で演劇のユートピアが、あたかもそこではすべての人が平等に尊重されるかのように偽りの装いをまとって現出する。俺にはそれが心地よく感じられたが、それが心地よいのは多様性があるからではなく、むしろ逆に多様性を欠いていて、そしてそのことが巧妙に隠蔽されているからに他ならない。
手話話者の起用や排他的な多様性なんかで『ドライブ・マイ・カー』は『エターナルズ』と重なる。この共時性は興味深いところで、どちらも日々の生活風景を丁寧に描写し死を見つめていく映画であることには日本人的な内向き志向が日本だけの現象ではないというか、俺のざっくり飛躍推論ではトランプ大統領の誕生とかイギリスのEU離脱とか現今のコロナ禍とかで、まぁ、みんな疲れちゃったんじゃないですかね。
もちろんリベラル勢力も例外ではなく、保守が大きな出来事を望まず日々の小さな出来事を大事にするのは当たり前だが、今や(ハリウッド映画産業の動向を左右する)リベラルまでもが大きな出来事を良しとしない。『ドライブ・マイ・カー』の多様性も『エターナルズ』の多様性も「都合良く選ばれた」多様性であってそんなものは本来の多様性じゃないけど、本来の多様性の推進というのは大きな出来事だから、こんな嘘の多様性で妥協しちゃう。人間が死ぬなんて当たり前のことなんだから当たり前に受け入れていけばいいけど、日本はともかく欧米諸国なんかはびっくりするレベルでコロナで人が死んでるから、その当たり前の死との向き合いが一時的に機能不全に陥っているのかもしれない。どうもそうしたところに『ドライブ・マイ・カー』や『エターナルズ』がフィットしたんじゃないかという気がする。
映画の中でぐらい派手に大きな出来事をやって欲しい俺としてはちょっとガッカリしてしまうところだが、映画に大きな出来事を求める野蛮は有害な男らしさとして、少なくとも今は望まれていないんだろう。ディズニーの新作『ミラベルと魔法だらけの家』も偽りの多様性と毎日の生活(仕事)の話で大きな出来事は何も起こらない。そしてそこには遊びもない。『ドライブ・マイ・カー』にも『エターナルズ』にも『ミラベルと魔法だらけの家』にも仕事をしないで遊ぶ大人は出てこないし、とくに女の人は働いてばかりいる(『エターナルズ』には病気療養中の人も一応出てくる)。映画の中の大きな出来事とは遊びのことなんじゃないだろうか?
かなり最初の方に話を戻せば俺がジャック・タチの映画が好きなのはそれが遊びの精神に溢れているからで、だから、『ドライブ・マイ・カー』みたいな映画が脚光を浴びて賞賛一色になる世の中が俺は嫌だ。なにごとも正直がいちばん。そんな結び方するなよとは思うがまぁでもね、どこに着地するのかわからないのが素人感想の面白さみたいなところあるからいいじゃんどうせ誰も読まないし…ぶんぶぶ~ん!
※面白いか面白くないかで言えば結構面白い映画でした。
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