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『シン・ウルトラマン』に香るイエスタデイ・ワンスモアのニオイ

やれセクハラだのセクハラじゃないだのと変な方向から話題になってしまった『シン・ウルトラマン』の長澤まさみニオイ嗅ぎのシーンだが、ニオイ嗅ぎが印象的な映画といえば思い出されるのが『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』だ。その悪役イエスタデイ・ワンスモアは昭和のニオイをどこからか入手してしまい、昭和のニオイを日本中に撒くことで、イエスタデイ・ワンスモアの首領ケンとチャコには何の価値も見出せない平成の世を昭和の世に戻してしまおうとするのである。人はニオイに抗えない。たとえ平成の世の方がほとんどあらゆる面で昭和よりも便利で生きやすくなっているとしても、昭和のニオイはそんな合理性など吹き飛ばしてしまうのだ。ニオイとはつまりエモである。

『オトナ帝国の逆襲』には冒頭にこんなシーンがある。イエスタデイ・ワンスモアが春日部に建てたテーマパーク二十世紀博に埼玉の大人達は超夢中。野原ひろしも例外ではなく自分がウルトラマン(的な)になってプロに撮影してもらえるというサービス(これ実際にやれば儲かるんじゃないか)の虜となって子供返り、アクション仮面のビデオを見たがるしんちゃんに強引にウルトラマンのビデオを見せようとするのであった。
『シン・ウルトラマン』公開後、ツイッターでも同じような光景が見られた。一緒に行った子供も喜んでた!とか、俺に子供がいれば一緒に見せたかった!とか。オタクというのはどうも子供を自分の趣味を好きなだけ押しつけることのできる便利なペットぐらいにしか思っていないらしい…が、それはいいとして、この類似性は看過できるものではない。

思うに、『シン・ウルトラマン』とは二十世紀博なのだ。昭和のニオイが充満するその世界に入ると誰もがノスタルジーを強く感じてただどうしようもなく流されてしまう。誰もが、と言いつつ昭和体験も特撮の思い出も一切ない俺はそうではなかったので、そんな俺の目にはしんちゃんと春日部防衛隊が二十世紀博に見たものと同じようなものが『シン・ウルトラマン』には見えた。つまり、なんとなくあやしいぞ、という。それをちょっとここに書いてみようと思う。

宇宙人と外星人

特撮業界のことはほとんどなんにも知らない特撮幼稚園児の俺なので『シン・ウルトラマン』で宇宙人の代わりに採用された外星人なる呼称に特撮の文脈でどんな意味があるのかはわからない。わかるのは外国人をもじって外星人、ということだけで、特撮オタクならだからなんだで済ませるかもしれないが、俺はなんだかこの呼び名に嫌な印象を持った。なぜなら『シン・ウルトラマン』に出てくる外星人は日本侵略(最終的には地球侵略が目的としてあるとしても、まず最初に狙うのは日本なのである)を目論む腹黒い奴らばかりであり、ウルトラマンは外星人であるにも関わらず日本を守るために悪い外星人をやっつけてくれるが、それはウルトラマンが日本人の肉体に入ることで半分日本人化したからなのである。つまり、日本人と交わらない外星人は例外なく日本の敵としてここで描かれるのだ。

そんなものオリジナル版と同じだろと言われるかもしれないが、おそらくなのだがオリジナル版では外星人なる呼称はなく○○星人とかで宇宙人が呼ばれていたはずである。外星人と星人の違いはなにか。それは外星人が外国人のもじりであるように日本が外交関係を持つにせよ敵対関係に入るにせよ、いずれにしても他の「国」と同じレベルで「星」を扱うことにある。星人の場合はそうではないのであって、それは日本ー外国といった地上の関係性を超越した存在を指す。

俺はウルトラマンシリーズなんか一作も見てないのでこれは完全に想像になるが、おそらく初代ウルトラマンの「星人」には地上の知性では捉えきれない宇宙の果ての未知なるものへの恐れや憧れが込められていたのではないだろうか。『シン・ウルトラマン』の「外星人」にそれはない。彼らはすっかり地上人に理解できる存在に貶められたのであって、そのことは同時に、初代ウルトラマンでは顕在化しなかった外国人嫌悪を露わにしてしまう。

地上の対立を超えるなにかを宇宙に求める風潮は60年代から70年代にかけて、ヒッピー/ニューエイジ・ムーブメントと呼応する形で映画や漫画といったサブカルチャーの世界には広くあり、それはたとえば『未知との遭遇』がそうだし、『2001年宇宙の旅』や『銀河鉄道999』だってそうだ。その範列に『ウルトラマン』を置くことはそう牽強付会ということもないだろう。冷戦の時代であり、公害の時代であり、公民権運動の時代であり、戦後の経済成長の傍らで様々な社会問題が噴出した時代にあって、『ウルトラマン』が宇宙にその脱出口を見出したのだとすれば、星人を外星人と呼び改め地上の論理で把握しようとする『シン・ウルトラマン』は、なにか肝心なところで元祖の精神を忘れているような気がするし、その代わりに別の精神に取っ替えているように見える。

平成ガメラと自衛隊

その精神とは何か、の話の前にやや横道に逸れるが平成ガメラの話を少しだけしたい。というのも平成ガメラの二作目『レギオン襲来』において自衛隊とガメラの関係性はまったく絶妙なものであったので、それと『シン・ウルトラマン』におけるウルトラマンと自衛隊の関係性を比較すれば見えてくるものもあるんじゃないかと思ったのだ。

『レギオン襲来』と『シン・ウルトラマン』を比較したときに最も大きな違いはガメラは日本人のためではなく人類のためでもなくあくまでも地球のために戦うが、ウルトラマンの方は地球のためではなく人類のためでもなくあくまで日本人のために戦うということだ。したがって『レギオン襲来』の自衛隊とガメラの共闘はたまたま外来生物の駆除という利害が一致した結果に過ぎず、駆除が終われば再び緊張感を孕んだ敵対関係に戻る(そして次作『邪神イリス覚醒』へと至る)。一方で『シン・ウルトラマン』のウルトラマンと自衛隊にそのような緊張関係はない。むしろ武人として自衛隊はウルトラマンに全幅の信頼を置くのであり、ここではウルトラマンと自衛隊がほとんど一体化していると言える。

一時的な共闘は可能だが本質的には相容れないものとしてガメラと自衛隊を捉えることで『レギオン襲来』が為し得たことの一つはナショナリズムの抑制であり、それによって自衛のための組織である自衛隊の戦闘行為をその存在理由から逸脱することなく描くこともできた。もしガメラと自衛隊の距離がもっと近ければ自衛隊は兵器としてガメラを行使することになってしまう。自衛のための兵器というにはガメラの力は巨大すぎるだろう。巨大な力を持つヒーローであり、同時に日本を滅ぼしかねない怪獣でもあるガメラという存在は、自衛隊を自衛隊として描くために必要だったとさえ言えるかもしれない。

こうした視座から『シン・ウルトラマン』を見たときに、そのウルトラマンと自衛隊の近さ、更に言えば国家中枢との近さは、あやうい均衡を崩してしまっているように思える。ここではウルトラマン=自衛隊=国家中枢(禍特対×公安)に根本的な立場の相違はないのであり、怪獣退治の名目で日本はウルトラマンという巨大な武力を手中に収めるのみならず、そのことで世界の命運を決する権利をも一手に握るのである。

ノスタルジーとナショナリズム

こうした構図を踏まえれば『シン・ウルトラマン』が元祖ウルトラマンを換骨奪胎して新たに注入した精神とは何か明らかになるのではないだろうか。それはノスタルジーとナショナリズムである。無自覚的な復古主義と愛国心の鼓舞。それが『シン・ウルトラマン』の核心であり、観客の心をくすぐる最大の要素に他ならない。日本にはできる。日本はこんなにすごい国だった。日本は宇宙からも愛される。それは高度経済成長期の最中に製作された元祖ウルトラマンと同じようで似て非なるものだ。なぜなら元祖ウルトラマンが地上の対立を宇宙の夢で超え出でようとする未来志向・インターナショナル志向だったのに対し、『シン・ウルトラマン』のそれは映像面でも「日本がすばらしかったあの頃」に戻ることを志向するからだ。

「あの頃」への退行を阻害するものにオタクは敵意を隠さない。冒頭のセクハラ論争もそうであり、それがセクハラかどうかはともかくとして、セクハラという現在の概念装置で「あの頃」を裁き評価すること自体がオタクには耐えがたいのではないだろうか。『シン・ウルトラマン』に登場する閣僚は全員が「あの頃」のように男性俳優であり、『大怪獣のあとしまつ』でさえ現実の議員構成を反映し一人か二人は女性閣僚がいたのだが、その男女比に違和感を表明する特撮ファンの声を俺はまだ発見できていない。そのことは『シン・ウルトラマン』とそれを絶賛するオタク層の復古主義的傾向を隠しようもなく裏付けるものだろう。ナショナリズムと結びついた復古主義は、当然ながら女性蔑視ないし嫌悪の方向に向かう。

元祖を含めてウルトラマンを一切見たことがない俺に何がわかるんやと自分でも思うが、もし円谷英二や実相寺昭雄が存命ならばこの映画の(見てくれはともかく)思想に果たして好意を抱いただろうかと疑問に思う。俺の中の風間くんが、シン特撮に浮かれるオタク大人たちに苦言を呈す。「懐かしいって、そんなに良いものなのかなぁ?」


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