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【読み放題対象】なぜ日本のリベラルはかくも幼稚になったのか ~自由の危機だ!物言えぬ社会!という言葉こそがむしろ自由を抑圧する~

abstract

さても面妖な話である。

今日も今日とて「政治を“語れない”」「こんなの日本だけ!」の声がきこえてくる。大坂なおみ騒動の時から特に強まったような気もするが、たとえばこんなのだ。


清春氏は、「その時にあるものに寄り添っていたらダメ、美しくない」「主流なものはロックではない。僕は反対側にいたい」という。ならば、「語りにくい空気の中でも、それに抵抗して語るのこそがロック」ということになるのではないか。

結局、彼のいっているのは「反体制という体制主義者」の言葉のようだ。彼は、もしかして、自己の適当に思いついた政治主張がひたすら賛美翼賛されていないと許せない人なんじゃないだろうか。私が何故そう感じたか理由を書いていく。

このように、この言論の自由が保障された日本で、「自由な発言ができない!」「物言えぬ社会!」「戦前の空気!」とか大騒ぎで悲憤慷慨するのはなぜなのか。彼らの心理機序と、彼らが、一体どのような社会をもたらそうとしてるのか、それについて徹底分析していこう。はじめに言っておこう。彼らに自由の危機を感じさせる正体こそが自由であり、そんな彼らの幼稚な精神は、全体主義をもたらすのだ。

彼らは自由主義(リベラル)を深く愛しているが、それゆえに必然としてリベラルではない。

同じ幼稚な精神をコトコト煮詰めて、煮こごりになったように凝縮しているものとして、先日、こんな怪書が、この世にまろびでてしまった

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そしてこの装丁、「ブックデザイン史に登録されるべき一冊」「表紙みただけで、“息苦しさの正体”が一目瞭然にわかる」とか称賛された。もちろんアイロニーとしてだ。

「息苦しさの正体」という副題の下に、ずらずらと連なるいかにもな執筆陣の名前……、「つまり、私達が正体だ」と自己紹介する自虐ネタにみえてしまう。本人たちは大真面目にやっているだけに、思わず暗黒微笑を浮かべたくなる。

とりあえず、装丁デザインを著者校正中に、この「息苦しさは、この人達のせいなんです(執筆陣)」と見られる(いじられる)可能性に気づかず、GOサインを出した時点で、時代から取り残された気の毒な感性の集団な印象を受ける。

その思いが深まるのが、この本の新聞広告のコピーだ。「国家の暴走を止めるのは今!」などと書かれていて、このアルカイックな響きに感慨深くなる。1960年代に真面目に働く機動隊員に、まだ社会にも出てない都会の学生たちが石を投げていれば、なにか世界と戦った感のようなものが得られた時代……敵と味方がわかりやすい幼稚な世界観から停止している。どこぞのフェミニスト諸氏のように、「アップデートされろ」といいたくなる。彼らが、戦うという「権力」とは、もちろんフーコー的な意味はなく、わかりやすい国家権力のようだ。

内容も以下のような感じである。

本の内容
あいちトリエンナーレ2019、日本学術会議 会員任命拒否、検察官定年延長、加計学園問題……今、起きている出来事の本質を見抜くための論考集。
あらゆる「自由」が失われつつある中で、研究者・作家・芸術家・記者などが理不尽な権力の介入に対して異議申し立てを行う。

“あらゆる「自由」が失われつつある中で”“理不尽な権力の介入に対して異議”とかいわれても、……ここは、香港ですか?という話である。

あたりまえだが、この「自由」にはなんの客観的基準もない。少なくとも直接的に不穏当な発言で官憲にしょっぴかれたとか、脅迫されて出版停止に追い込まれたとか具体的な事例はなく(自分たちが国家に特別扱いで保護されないことを逆恨みはしているようだが)、「なんか不自由な気がする」「俺たちは声を出しにくいんだ」……そんな程度の主観的な「自由」なのである。

なぜ彼らは自分たちが、不自由であり、息苦しいのか、まったく内省しない。ひたすら、他の人間が悪いのだと決めつけ、責任を押し付ける。その叫びのひとつとして清春氏の「こんなの日本だけ!」もある。それを幼児性といわずなんとおう。

当たり前だが、本当に「自由が危機」であり、そして「(政治的な発言に)息苦しさ」があるとしたら、こんな本が商業出版できるわけもない(リンゴ日報のように出版停止になる)

このあたりで勘がいい読者はお気づきだろう。

この「自由の危機 息苦しさの正体」という本を生み出したのは、あの“報道の自由ランキング”でどんどん日本の順位が下がっていく謎現象と、全く同じ幼稚なメンタリティである。

そもそもあの報道の自由ランキング、たとえば安倍政権になってからみるみる下降して、「急速に物言えぬ国になる日本!」「非常に憂えるべきもの」「恥ずべき事態だ!」とか朝日新聞はじめとするメディアや左派言論人が大騒ぎでキャンペーンしたものだが、そもそも論として、2016年の日本の報道の自由ランキングなど、下がりに下がって世界で72位となってしまった。だが、その時、香港は69位だった。


リアルに中共によって言論弾圧が進行中の香港よりも日本のほうが自由が低いランキングという時点で、「報道の不自由さを表すランキング」などではなかったのだ。

このランキングは多少の客観的基準もあるが、基本的には、当該国の報道や言論関係者等が「どう感じているか」というアンケート結果にすぎない。ということはすなわち、

「報道が自由でないと思いたがる人が多い国をあぶりだすランキング」にすぎなかったという至極当たり前の事実につきあたる。

いや“国境なき記者団”とかいう組織が、調査し、ランキングを公表するのは、もちろん自由だが、正確に「報道が自由でないと思いたがるアレな報道関係者や言論人が多い国をあぶり出すランキング」に改称しろ、という話なのである(実際に報道が不自由かどうかは別問題であり、関係ありません)

なぜこういう現象がおこるのだろうか。これを理解すると“日本”では、「自由の危機だ!」「物言えぬ空気」と叫ぶ人が多い理由も理解できてしまう。


幸福度指数調査とかもそうだが、こういう単なる主観を訊く調査結果はむしろ実状と正反対の結果がでることがある。
むしろ豊かで恵まれ、未来への夢一杯の生活をしている人たちほど、「自分たちはまだ幸福ではない(=不幸だ~)」と考えたりもするし、そして貧乏であり、将来に希望がない人たちに限って「私達は(今)幸せなんだ」と考えたりもする(大澤真幸氏の指摘)。

この現象を私なりに解釈すれば、人間は基本的に「欲望の足るを知らない生き物」である。恵まれてる人間に限って欲望に際限がない。もっともっと欲しいと願う。そして身も蓋もない言い方をすれば、限界が見えた(未来がない)時になって初めて、その事実に耐えられないから、精神安定のために自分を騙し、「足るを知る」ようにもなる。これは重要な心理現象である。

そして報道の自由ランキングにしたところで、「あまりに言論が自由すぎる」国ほど、見果てぬ夢をもとめて「こんなもんじゃ全然自由が足りないよ!」「息苦しい!」と言い出す可能性だって高いだろう。わがままに育てられた子供が「全然、何も買ってくれない!A君はSwitch、PS5、Xbox だって持ってるのに!もっと欲しい!」とダダをこねる。一方で慎ましやかな家庭の子供が「うん、ぼくは100円ショップのボドゲ買ってもらってすごく嬉しかったよ」と答えるみたいな感じだ。日本で多くの報道関係者や言論人が、ことあるごとに強迫神経症のように「不自由だ~!不幸だ~」と繰り返すのは、まさにこの理由から説明できる。彼らは大人になる契機を永遠に奪われている。

まして、1960年あたりから世界観が全く“アップデート”されていない彼らが「現実」ではなく、ヒロイックに“権力”と戦っている自分たちの「願望」を投影しようとした結果、あの“異常な低迷した結果があるのではないか。「僕たち(私たち)が不自由なのは、権力が悪いんだ!」といったものだ。

だが残念ながら、実際に、彼らを抑圧していたものは「国家権力」でもないし、もちろん「言論統制」でもない。

あえていえば、彼らを取り巻くSNSをはじめとする“ネット世論”の無数の反論にすぎない。

なぜお前はそんなことが言い切れるのか、といえば、別に私の霊感なのではない。この『「自由」の危機』なる本を手に取れば、呆れることに実際に書いてあるのだ。以下おどろくべき記述をみていこう。

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