「人権」と「防疫」を天秤にかけたがる厨二病患者ども

 以前、「人権」と「道徳」は相反する、どちらかを重視すればどちらかが損なわれるという記事を書きました。今もその認識は変わっていませんが、昨今のニュースを見る中でその二択を迫ることの害悪さに気付いてしまったので、その話をしたいと思います。

 人権と道徳の対立。これは個人主義と全体主義の対立と呼んでもよいでしょう。感染症対策においても、「もっと国に権力があれば外出禁止令を出し、違反者を捕まえることができる」と嘆く声がよく聞かれます。確かに、逮捕という暴力によって国民を脅せば国の思い通りに動かしやすいかもしれませんが、しかしその代償として国民一人一人の自由や財産が脅かされ、権力が暴走した際の多大なリスクを負うことになります。「個人を尊重し感染拡大を看過するか、個人を抑圧し感染拡大を防ぐか」という対立構図を置くと、憲法論を巻き込んだ非常に難しい問題になってきます。

 しかし、この議論は実は詭弁の一種である「誤った二分法」に当たります。「権力によって個人を抑圧しなければ感染拡大を防げない」という前提に基づいているためです。

 皆さん忘れがちですが、実は、法律を作り警察を動員したところで、国民がそれに従うとは限りません。今現在も道路ではスピード違反の自動車が走っていますし、重い刑罰が科せられるにも関わらず殺人事件は起きています。あくまで法律で抑止することができるのは、「捕まった時のリスク」が「犯罪を犯すメリット」を上回っている時のみで、失う物が無い人間や捕まりたい人間には無力です。どんな法律も行為自体を止めることはできず、あくまでメリットとデメリットを調整して「犯罪を犯すと損をするからやらない」という理性的な態度を期待しているだけに過ぎないのです。

 そうして考えると、「法律で禁止して、警察と司法の暴力によって従わせる」という単純な手段だけが解決策ではないと分かります。Twitter上では「#自粛と補償はセットだろ」というハッシュタグが使われていました。そもそも自粛が声高に叫ばれている中、致死率の高い伝染病に感染するリスクを背負ってわざわざ外出したいと思う人は多くありません。それでも「伝染病に感染するリスク」と「仕事を失って生活できなくなるリスク」を比較し、後者のリスクの方が大きいと感じるからこそ外出して働くのです。既にリスクの板挟みになって苦境に立たされている人に対し「外出したら逮捕される」と更にリスクを背負わせるまでもなく、行政がしっかりと保障をして自粛のリスクを低減し個人にとってのメリットとデメリットを調整すれば、行動変容を促すことができるのです。そうした制度設計の調整により「損得勘定に基づいた個人の利己的な行動」と「全体にとって望ましい行動」を一致させ合成の誤謬を解決するのが政府の役割です。

 「従わない人間を逮捕すればスムーズに政策を実現できる」というのは、馬鹿でも思い付くことです。暴力によって人間を従わせるなんてのはいよいよ手が尽きた時の最終手段であり、「自分は有効な制度設計ができない無能です」という投了宣言に他なりません。「国が有効な政策を打てないのは憲法に縛られているからだ」「お前らが人権を守れとうるさいから外出する馬鹿を止められないんだ」と、防疫の不手際を人権のせいにする言説はただの論点ずらしの詭弁です。

 厨二病のオタクは究極の二択が大好きです。ジレンマを見出だし、正義と正義の対立構図を作ればさも本質を捉えた深いテーマの議論ができるかのように勘違いしています。しかしそうした二分法はともすると、ジレンマに至る以前に双方の利益を両立する為の現実的な議論を邪魔してしまうのです。そのことに自覚的であるべきでしょう。

 という、自戒を込めた話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?