解体ひざ心書
右膝
右膝のお皿の下、中央に3cmほどの縦の人工的なへこみ傷跡がある。
また膝のお皿の周囲にも3か所小さい傷跡がある。
これは、前十字靭帯断裂とそれに伴う半月板損傷の再建手術を受けてできたものだ。
この傷跡ができたのは中学校卒業の時期だ。
しかし、この傷跡ができる元となるケガをしたのは中学校2年の11月である。
ここで膝の前十字靭帯断裂について説明する。
膝は関節なので隙間があり、その隙間を骨と骨の安定のためにつないでいるのが前十字靭帯だ。
骨と骨と書いたけれど、膝関節を構成する骨はとても長いために前十字靭帯がないと脚がぐらぐらするのである。
このケガは膝をひねって起こる。そうひとことで書いても、膝が逆方向に分かりやすく曲がるなどではないからイメージが湧かないだろう。
太ももに乗る体重と脛にかかる体重が一気にそろわない態勢になったときが「膝をひねる」だ。
膝の前十字靭帯を断裂した直後は、膝だけでなく脚全体の痛みを生じ、前十字靭帯がないとぐらつくために立てなくなることが多い。
このケガは自然治癒でなく手術が必要だ。中には膝周りの筋肉を強くして手術を行わない者もいるらしいけれど、多くは靭帯再建手術を行い、術後リハビリも長い。
そのため、このケガはスポーツ選手がしてしまうと選手生命が断たれる危険性があるそうだ。何らかのテレビ番組で、ケガの直後立てずにうずくまっているサッカー選手を見たことがある。
私は、スポーツ選手だったら人生に関わるケガをして、手術までに一年以上かかっている。その一年の間に長期休みがなかったわけではないのに。
私が右膝をひねったのは、体育の授業中だ。
私の体育の成績は、お慈悲で「3」をもらっていたようなもので、運動神経が悪く、体の動きを頭と連動させるのがどうも小さい頃から苦手で、そもそも体育の時間は苦痛だった。だから、チームプレイなら迷惑かけないように個人種目なら目立たないように慎重に体育をしてきた。
逆に言えば、体育の成績下位項目である「安全に気を付けて運動する」だけはいつも◎だったのに、大怪我をした。
中学2年の11月。
その日は、バスケの授業だった。相手ゴール下でボールを投げたときに、投げた方向に膝から崩れたのを記憶している。
ひどい痛みだった。右脚全体が熱くなって、今でも冷静に形容できない痛みがあった。
だけど、なぜか私は立てた。
スポーツ選手や大半の人なら直後に立てず、担架を呼ぶ人もいるケガを起こしたにもかかわらず、私は立った。なんなら右脚に体重をかけないようつま先歩きにして、階段を上って体育教師と保健室に行った。
だぶん、このせいでおすすめされた病院が近くの小さな整形外科となってしまった。
なぜか歩いてしまった自分が悪いのだけれど、この整形外科ではレントゲンを撮るだけで、その写真に異常はなく膝周りの肉離れに近いものだと言われてしまった。
その日以降、鈍痛が常時あって地面をつくたび激痛が走って、でも我慢できたし少しは転んだ時よりもマシな気はしていたから、松葉杖も使わずに学校に、重い教科書たちを背負いながら通っていた。
それでも、ただの肉離れではないくらいの痛みが長期続いていたのに「寒い時期だから痛むのかもね」と言われながら3か月を過ごす。
総合病院の整形外科に行ったのは年明け、中2の3学期だ。
午前中の学校を休んで診察を受けた。
この時は、問診と触診のみだった。
おそらくベテランに見えたその医師は、そんなに時間もかけずに膝を軸に脚を回すやいなや「う~ん、ACLかもね」とつぶやいた。
母親も同伴していたのに、私だけが「ACL」という響きが頭に残っていたらしく、午後から学校に行くまでに母とお昼食べている間に、母親のスマホを借りて「膝 ACL」と検索したのをよく覚えている。
ACL自体は前十字靭帯の英名略称で、そこに損傷や断裂は含まれないけれど、なんとなくあの医師のつぶやき方で「ACL」という大事な部分が損傷してるのだなと察して冷や汗が出た。
それから2週間後くらいに、MRI検査を受けた。
検査後は、膝関節専門の別の医師が担当した。
あのベテラン医師がつぶやいた通り、「ACL」右膝前十字靭帯が断裂していた。
担当医が私に膝の模型図を見せながら「あなたの場合は、きれいに切れてますね」と言った。
検査結果が出たその日のうちに、理学療法士さんと会い、リハビリを週2でつけてもらうこととなった。
以降の診察は、月一の経過観察と手術計画に移った。毎月、手術をいつするか尋ねられた。あと数ヶ月で中学3年だったから、今年度は高校受験があると、明確な手術時期を決められないまま何か月か経った。
私は、手術日程を決めるために高校の志望校を決めなければならなかった。
地元の高校なんて両手で数え切れるくらいしかないのに、決められなかった。
いや決められなかったんじゃなくて、当時の私は、手術のために親のために学校の先生のために、その高校に進学するように思えて苦しかった。自分の意思がないまま高校生になる恐怖でいっぱいだった。
だんだん時間と決断に迫られる。
母親からも学校の先生からも、別な方向から病院の先生からも迫られる。
もう閉鎖的な気持ちと感覚だけになった中3の10月頃に、やっと、手術のために母親のために学校の先生のために、進路を決定し、手術の日程を決めた。
手術の日は中学校の卒業式の2週間前だ。
前十字靭帯断裂の再建手術だけなら入院期間も短く済んだらしいが、手術中に半月板も損傷しているとわかり同時手術だったために、1か月の入院となった。
卒業式は、仮退院で出席する形だったし、卒業式前の数週間の春特有のむずむずを味わえなかった。
そのせいか傷跡を見るたびに、この傷跡をえぐったら中学時代に戻れるのではないかと妄想するのだ。
卒業をきれいに味わえなかったけれど、入院していなければ味わえないこともあった。
いや、「も」では足りない。
入院していなければ経験し得なかったことは、今の私の軸だと思う。
前十字靭帯ほど身体のぐらぐらを支える強さはなく、ちょうど再建したての前十字靭帯くらいの強さの軸だけど。
私は活発な子ではなかったから、親や先生以外の大人と深く話したことがなかった。
だから、同じ病棟の患者さんや理学療法士さんと話すのは新鮮で今もきらきらした経験になっている。
私は同じ病棟になった患者さんの前で、はじめてつらくて人前で泣いた。
術直後3日で'The 病室'とは離れて、リハビリ病棟に移った。
その日すぐに同級生が3人でお見舞いに来てくれたのだけれど、それこそ卒業前の桜色を纏っていて、私は気が滅入ってしまった。
また、このリハビリ病棟はご飯を患者さん同士合同で食べる。そこで、ご年配の方はお食事前におくちの体操をするのだけれど、ここに移ってすぐの私にはカルチャーショックだった。
病棟を引っ越して2日目の夕食後、少しメンタルが下向きになった私に話しかけてくれた人がいた。
足首にサポーターをはめて車いすに乗っていたサトウさんだ。
「一番若いんじゃないかなと思って、名前なんて言うの?」と笑顔で声をかけてくれた。
あの時に話しかけてもらえて、自分がケガをした経緯とどんな手術かを話して、こっちの病棟に移ってちょっと気が滅入っていることを一方的に話しただけで、助言や安心させる言葉をもらったわけではないのに、私はぼろぼろ泣いていた。
私はこのことが不思議で素敵な経験だと思えて、今の大学での専攻に興味を持つことができた。
他にも、サトウさんが仲介してくれて一番年齢が近い大腿骨の問題で同じ病棟にいた看護学生と将来の話とかお化けの話とかたくさん話した。
そうしているうちに、はじめはショッキングだったご年配の方とのお食事もおいしく食べられるようになり、入院中に2kgも太った。
同じテーブルだった80代のおばあさんと縁側のおしゃべりみたいな、ほのぼのした会話をしたのも良い思い出だ、元気かな。
リハビリ病棟では一日2回、理学療法士さんがついてリハビリをした。
たまたま音楽の趣味が近い理学療法士さんが担当してもらっていてたくさん話してもらった。
だから、術後の痛みがあって少しずつの地味なリハビリも進むことができた。
おすすめしてもらった曲は今も大切に再生しているし、私にとって地道にがんばれる応援ソングになっている。
10-FEETもKEMURIも初期RADWIMPSも、自分の年代とは少し離れているけど全部懐かしいんだ。
今、音楽が大好きなのはここから来ているかもしれない。
あとは、入院していなくても味わえたかもしれないことなのだけれど、
なぜか中学校3年間でそこまで話したことのない同級生が3日に1回の頻度でお見舞いという名目で遊びに来てくれた。
それこそ特に何をしたわけではないけれど、病室から連れ出して病院探検しながらよく話した。
その子とは、中学・高校卒業後も仲がいい。
右膝の傷跡を見るとぜんぶ思い出してしまう。転倒時のなぜか痛みに耐えてしまった身体、診察の不安。手術前の進路の圧迫、自己意志の無さ、時間の焦燥。入院中のブルー、泣くことができた事、話したこと、音楽。ぜんぶ。この膝下の傷跡は消えなくて長ズボンしかはけないけれど、それがまるで人といるときの私と一人になったときの私と対になってるように思える。
傷跡が消えないから、過去を持ったまま今を進めている。
解体ひざ心書 終わり
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?