中村哲志

・・・についてを書き綴ります。

中村哲志

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最近の記事

025 「逃げ切ること」について

先日、ぼくが勤めている会社の人が辞めるということになって、その人の最終出勤日に、「じゃあ今日が最終日だから一緒にランチに行きましょう」ということになった。 その人はすでにもう次の転職先が決まっていて、条件も今よりも良くなった、ということだったので、まあそれは良かったね、おめでとう、ということだったのだが、そのときにその人が言った言葉がぼくには理解できないものだった。 「まあ、あと10年勤めたら定年なので、それまでその会社に勤めたら逃げ切れる」 ぼくもその人とほぼ同じ歳で、

    • 024 「”deserve”という英単語」について

      英語のあいさつで、”How are you?”というのは普通に使われている。 ただ、中学校の英語の授業で習ったように”I’m fine, thank you. And you?”なんてことを言っている人をぼくは見たことがない。だいたいは”Good”などと短く言うだけだ。ぼくはこのやりとりが苦手で、”Good”だけ答えることがなんとも気持ちが悪いのだ。でも、”I’m fine, thank you. And you?”というのももっといやだ。 ぼくはずっと、この”How are

      • 023 「Ya◯oo Newsのコメント」について

        Ya◯oo Newsには、あるニュース記事について、それを読んだ者がコメントできるようになっている。これがなんともおもしろい。 何がおもしろいのかというと、ひとつのニュースについて一気に数十、数百のコメントが付くのだが、そのどれもが表現こそ違え、だいたい同じことを書いている、ということだ。他の多くの人が書いていることとほぼ同じ内容のことを、さも自分だけは他とは違う「独自の視点」で書いている、という気持ちを勝手に妄想するとおもしろくなる。嫌な性格。ぼく。 さて、その「ほぼみん

        • 022 「勝手にできたヘンテコなルール」について

          数年前のことだ。新宿駅の山手線のホームはいつも人がたくさんで、次の電車を待つ列のところには「◯◯◯」というマークが書かれていて、さらに「3列で並ぶように」という注意書きがあった。 ぼくが並ぼうとしたある列は、その「◯◯◯」と注意書きを無視して、一本の長い行列になっていた。 そのためその列はホームを歩く人の妨げにもなっていた。 なぜそういうことになったのかは想像がつく。最初に並んでいた知らない人の隣に並ぶのがいやだったんだろう。その次以降に来た人は、すでに何人かが並んでいて長

        025 「逃げ切ること」について

          021 「ぼくが知らなかったルール」について

          こんな夢を見た。 ぼくが小学校一年生ぐらいのころに、ぼくに将棋を教えてくれた人と何十年かぶりに将棋をしている。ぼくは小学生のころ以来、ほとんど将棋をしてこなかったので、相変わらずヘボ将棋で歯が立たない。それでもその人と将棋の駒を進めているときに、その人が変な手を打ってきた。 桂馬が明らかに変なところにとんだのだ。 ぼくがその動きはおかしい、ということを指摘したら、ぼくに将棋を教えてくれたその人は「桂馬はここにとぶことができるのだから、これは正しい動きだよ」と教えてくれた。数

          021 「ぼくが知らなかったルール」について

          020 「ミニマリズム」について

          最近、ここ10年ぐらいか、「ミニマリズム」という言葉の意味が、それまでとはやや違って、非常に限定された意味として使われるようになったと思う。元々は、アートなどの分野において、「極限までに情報量を限定することによって作品を成立させる」というラディカリズムのことを指していたように思う。 もしかすると、表面的な見た目は同じようなものなのかも知れないが、ジョナサン・アイブがアップル製品にしていたような「シュッとした」デザインを最近では「ミニマリズム」と呼ぶようになっているような気がす

          020 「ミニマリズム」について

          019 「私的な問題を作品のテーマにしてしまうこと」について

          あなたが何らかの芸術作品を創る際でも、「コンセプチュアルであること」はもっとも重要なことだ。コンセプトのない芸術作品には価値がない。「コンセプトがないこと」をコンセプトとしている場合以外においては。 作品をコンセプチュアルに創ることの次の段階は、「その作品が歴史的にどういう意味を持つのか」ということに責任を持つことである。村上隆は常々、「現代アートの文脈をちゃんと勉強して、その文脈にのったものを創らなければならない」という意味のことを言っているが、まさに、文脈を無視したものは

          019 「私的な問題を作品のテーマにしてしまうこと」について

          018 「クレイジーであること」について

          「コンセプチュアルであること」を心がけて、自分の行動と、自分が創りだすものがこの世界を変える、ということをちゃんと意識できるようになったら、次に心がけるべきことは、「クレイジーであること」だ。 「クレイジー」という言葉は、本来の英語の意味ではそんなにいい意味ではない。どちらかというとネガティヴな言葉であるはず。だけれども、それでもあなたには常に「クレイジーであること」を意識してほしい。 ここでぼくがいう意味での「クレイジー」とは、「『誰もが正しいと思っていること』をいったん

          018 「クレイジーであること」について

          017 「コンセプチュアルであること」について

          おそらくぼくはこのnoteで、一番言いたかったことを書くことになると思う。 ぼくはこれを書くためにnoteであーじゃこーじゃを書き始めた。 ぼくはこれを、今、これから先の自分の人生がどこに向かっているのか分からなくてビクビクしている中高生や、大学生、また、今年初めて社会人になったばかりだというのに早くももう、これから先の人生に絶望しかけている若い君、あるいは、これから就職活動を始めようとしたが、自分がどこに向かっているのかまったく分からなくて困っている君、あるいは、ぼくよりも

          017 「コンセプチュアルであること」について

          016 「そこにあったから」について(あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について その3)

          ぼくは昔から、おそらく他の誰とも共有できることはないだろうな、と思い続けているある感覚がある。これまでこのことを何人かに話したことはあるが、やっぱり共有することはできなかった。「へえ」と言われてだいたい終わる。だが、おそらく人類の中で、ぼくだけが持っているこの感覚について、ちゃんと文章として残しておくことで、「かつて、こういうことを考えていた人がいたのか」という記録にもなるはずなのでここに書いておこうと思う。その3。 その誰とも共有できたことがないある感覚とは、もともとその

          016 「そこにあったから」について(あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について その3)

          015 「ある人の、ぼくが知らないある姿を見たとき」について(あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について その2)

          ぼくは昔から、おそらく他の誰とも共有できることはないだろうな、と思い続けているある感覚がある。これまでこのことを何人かに話したことはあるが、やっぱり共有することはできなかった。「へえ」と言われてだいたい終わる。だが、おそらく人類の中で、ぼくだけが持っているこの感覚について、ちゃんと文章として残しておくことで、「かつて、こういうことを考えていた人がいたのか」という記録にもなるはずなのでここに書いておこうと思う。その2。 その誰とも共有できたことがないある感覚とは、ぼくと何らかの

          015 「ある人の、ぼくが知らないある姿を見たとき」について(あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について その2)

          014 「人をバカにしているとしか思えないもの」について (あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について)

          ぼくは昔から、おそらく他の誰とも共有できることはないだろうな、と思い続けているある感覚がある。これまでこのことを何人かに話したことはあるが、やっぱり共有することはできなかった。「へえ」と言われてだいたい終わる。だが、おそらく人類の中で、ぼくだけが持っているこの感覚について、ちゃんと文章として残しておくことで、「かつて、こういうことを考えていた人がいたのか」という記録にもなるはずなのでここに書いておこうと思う。 その誰とも共有できたことがないある感覚とは、「人間の形をかたどっ

          014 「人をバカにしているとしか思えないもの」について (あるいは「おそらく誰とも共有できないある感覚」について)

          013 「日本人が外資系企業に勤めること」について

          ぼくは何度かここで書いたと思うが、プログラミングをライフワークと考えていて、自分が表現したいもの・ことをプログラミングで表現することを自分の仕事だと思っている。プログラミングが義務教育の科目になった、ということなのでこれから10年後ぐらいからは、プログラミングそのものが専門的な技術ではなくなって、「読み書きそろばん」のようなものになるのかも知れないが、とりあえずは今は、プログラムを書けることがぼくの武器になっていて、たとえば人間の手では描くことができないような絵をプログラミン

          013 「日本人が外資系企業に勤めること」について

          012 「カタカナ表記」について

          ぼくが大学で建築を学んでいたときの担当教官は、ドイツで建築を学んだ人で、そのためなのか何なのか、外国語を記述する際のカタカナ表記についてとにかくうるさかった。 基本的には、「外国語の言葉をカタカナで表記する際には、できるだけその元の言葉に近い発音となるように記述すること」というルールを徹底するように指導された。 ぼくは学部生のときの卒業論文のテーマを、アールヌーボーの建築に見られる装飾の曲線の数式をニューラルネットで求めて、さらにその曲線の続きが描かれるとすればどういうものに

          012 「カタカナ表記」について

          011 「英語」について

          ぼくは学生の頃、田舎の補習塾で英語を教えていた。補習塾ということもあり、進学塾とは違って気楽なもので、文字通り学校での授業の補習をすればよいようなものだった。 ぼくはもちろん教員の免許など持っていなかったし(今も持っていないが)、学校での授業のように指導要綱に縛られることもなかったので、結構好きなように教えていた。 その頃のぼくが一番大切にしていたことは、とにかく生徒が英語を好きになるように、ということだった。 ぼくは小学生のころからずっと、いつの日か英語が話せるようになり

          011 「英語」について

          010 「天動説」について

          「月は地球の周りを回っていて、地球は太陽の周りを回っている」 小学校で習う科学の基本的なことだ。小学校で教えることなので、現代人の誰もがこの「地動説」を信じている。だが実は、「この宇宙の中で何が動いているのか?」というのは哲学的問題であり、小学生への洗脳教育をすることでそれを疑問なく植え付けてしまうのは少々問題があるように思う。 「この宇宙の中で何が動いているのか」を問うとき、「この宇宙の中で止まっている(動いていない)点」を定義しなければならない。簡単に言ってしまえばその

          010 「天動説」について