見出し画像

025 「逃げ切ること」について

先日、ぼくが勤めている会社の人が辞めるということになって、その人の最終出勤日に、「じゃあ今日が最終日だから一緒にランチに行きましょう」ということになった。
その人はすでにもう次の転職先が決まっていて、条件も今よりも良くなった、ということだったので、まあそれは良かったね、おめでとう、ということだったのだが、そのときにその人が言った言葉がぼくには理解できないものだった。

「まあ、あと10年勤めたら定年なので、それまでその会社に勤めたら逃げ切れる」

ぼくもその人とほぼ同じ歳で、要するに50代なので、あと10年したらリタイア、ということは当然考えておかなければならないことだ。「あと10年をどう過ごすか」、「あと10年で何をやり切るか」。ぼくもそういうことはいつも考えている。

だが、「逃げ切る」という発想はなかった。「あと10年、我慢して働いたらリタイアして、貯蓄と年金で残りの人生を生きる」ということなんだろうが、そこで「逃げ切る」という言葉はぼくにとってはあまりにも新鮮だった。
あまににも気になったのでネットで調べてみたら、ぼくと同い年ぐらいの人々で同じような感覚の人が結構いる、ということに再度驚いた。
ここでぼくがごく普通に抱く疑問。

「この人たちは何のために働いているのだろう?」

もちろんぼくは、「仕事というものはお金のためだけではない」などということを言いたいわけではない。ぼくも給料がもらえないのだとしたら今勤めている会社では仕事をしないと思う。
それでも、「あと10年我慢して勤めたら『逃げ切れる』」という発想にはどうしてもなれない。「生きるためだけに働き、働くためだけに生きる」という人生がなんともつまらない人生だとしか思えないのだ。生きることには本来、もっと別の目的があったはずで、それを叶えるために生きていて、生きていくための日銭を稼ぐために働いている。もしかしたら、「生きていくために(いやいや)働いている」ということなのかも知れない。とにかくその本来の目的が無いままただ「生きるために働いて、働かなくてもよくなるまで働いたらアガリ」というのであれば、ではそもそも何のために生きているのか?逃げ切るために?何から逃げてるの?

「社会」なんてどうせ後天的なもので、ぼくが生まれた直後にはぼくが知らなかった概念で。それから何年もかけて「社会」というものが大切なものだ、と教えられて、自分もなんとかその社会の中で、社会のルールに乗っかった「仕事」というもので「お金」を得て、その「お金」を使って社会の中で生きていくことができる、というルールに乗ってきた。だがここで、そのルールの中に居続けるためだけに仕事をしてお金を得て、それでその社会の中で生きてく、という事自体に意味はあるのだろうか?
社会なんてどうせ後天的に理解するしかないものなんだから、今一度、その「社会の中で生きていく」ということを放棄してしまって、野生に還る、という選択肢はないのだろうか?
野生に還ることで、本来ぼくがこの人生の目的としていたはずのことを全うすることができるのであれば、その方が理にかなっている。

たとえ、「生きていくためにいやいや働いている」でもいいと思う。それが、本来叶えるべき、「生きていることの目的」を満たすためなのであれば。
ぼくにはどうしても「逃げ切る」という発想にその「生きていることの目的」というものを見出すことができないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?