見出し画像

020 「ミニマリズム」について

最近、ここ10年ぐらいか、「ミニマリズム」という言葉の意味が、それまでとはやや違って、非常に限定された意味として使われるようになったと思う。元々は、アートなどの分野において、「極限までに情報量を限定することによって作品を成立させる」というラディカリズムのことを指していたように思う。
もしかすると、表面的な見た目は同じようなものなのかも知れないが、ジョナサン・アイブがアップル製品にしていたような「シュッとした」デザインを最近では「ミニマリズム」と呼ぶようになっているような気がする。「ミニマルなデザイン」という言葉は本当によく聞く。そしてそれがもっともクールなものであると評価されている。今、何かをデザインするのであれば、「ミニマルであること」がもっとも正しいこととされている。

いっぽうで、「ライフスタイルとしてのミニマリズム」という言葉の使われ方も大流行だ。「ものを持たない生活」だとか、「これだけあれば生きていける」だとか、「必要なもの以外をすべて捨てました」だとか。それは、大量生産・大量消費時代以降の、「ものを持つこと」がそのまま「しあわせ」に繋がっていた時代への反省であり、反動であることはわかる。「ものを持つこと」がはたして本当にしあわせだったのだろうか?という素朴な疑問から、「持たない生活」が始まっている。そこに、長く続いた不景気も重なって、いまや「ライフスタイルとしてのミニマリズム」はもっともオシャレな生きかたにまでなっている。そして、この「ライフスタイルとしてのミニマリズム」は、「シュッとしたデザイン」という物質的なミニマリズムとも非常に相性がいい。つまり、ミニマルなデザインのものはミニマルなライフスタイルにぴったりだ、というわけだ。

これは日本だけに起こっているいつものガラパゴスな現象ではなくて、たとえばアメリカでも同じように「ライフスタイルとしてのミニマリズム」がずっと大流行だ。それは、アップルがアメリカの会社である、ということからも明らかなように。そしてなんと、日本語の「禅」という言葉は、(少なくともぼくが知っている限りでは)アメリカでは普通の英語の単語”Zen”として知られていて、それは本来の日本語の「禅」という概念を指すのではなく、単に「ライフスタイルとしてのミニマリズム」とほぼ同じような意味で使われている。
アメリカで出版されている、「ライフスタイルとしてのミニマリズム」を勧めるような本には”Zen”という単語がそのタイトルになっていることが非常に多いことからもわかる。「禅=ミニマリズム」というその短絡的な解釈もまたミニマリズムということか。

この全世界的なミニマリズムブームは、この世界にとって本当に正しい方向なのだろうか?

ものごとの情報量を極力排除して、シンプルに考えること。

これは、言い換えるなら「思考停止」ということもできないだろうか?
歴史や、異文化間の差異をも排除して、ただ「シュッとしたもの」だけに囲まれる生活。
「シンプルであること」というだけのコンセプト自体は確かにシンプルではあるが、それ以上のおもしろさはない。ただ空っぽなだけ。そこから何らかの刺激を受ける、ということもおそらくない。なぜなら、そういう刺激さえをも極力排除してきた結果が「ライフスタイルとしてのミニマリズム」だから。
元々、アートの分野で起こった「ミニマリズム」というものには、芸術を構成する要素を極限まで排除する、というラディカリズムがあった。今の「ライフスタイルとしてのミニマリズム」には、当然のことながらそういうラディカリズムはない。

ぼくは、ミニマリズムがもっともクールなこと、という価値観が主流になっているこの時代であっても、「ミニマルであること」を目指すことはないだろう。なぜなら、「コンセプチュアルでありたい」から。ミニマルアートがラディカルなアートとして成立した時代から数十年が経った今でも、ただ「極限まで排除しました」というだけのことが有効なコンセプトであるとは思えないから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?