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017 「コンセプチュアルであること」について

おそらくぼくはこのnoteで、一番言いたかったことを書くことになると思う。
ぼくはこれを書くためにnoteであーじゃこーじゃを書き始めた。
ぼくはこれを、今、これから先の自分の人生がどこに向かっているのか分からなくてビクビクしている中高生や、大学生、また、今年初めて社会人になったばかりだというのに早くももう、これから先の人生に絶望しかけている若い君、あるいは、これから就職活動を始めようとしたが、自分がどこに向かっているのかまったく分からなくて困っている君、あるいは、ぼくよりもずっと歳上のおっさんだけれども、自分はこれまで何に向かって生きてきたのかがわからなくなってしまった人たちに捧げたい。
自分がどこに向かっているのかわからなくなって、あるいは元々どこに向かっているのかがわかっていなくて、不安になっている人へ。

コンセプチュアルでありなさい。

コンセプチュアルであること。
自分が今、まさにやろうとしていること、あるいは仕事で割り振られたから仕方なくやらなきゃならないこと。やろうとしていること、あるいはやらされようとしていること、どちらでもいい。とにかく、コンセプチュアルでありなさい。

自分が今、まさにやろうとしていること、あるいは人から言われてやらされようとしていること。どちらでもいい。とにかく、それをやっつけてはダメだ。「上司からいついつまでにやれ」と言われたから難なくこなす、ということをゴールにしてはダメだ。どうせやらなきゃならないのなら、それをコンセプチュアルにやりとげることであなたがかたちづくられる。

ぼくがここで言っている「コンセプチュアルであること」の反対言葉は「思考停止」だ。
あなたがあなたの行動を、コンセプト抜きでおこなっているのだとしたら、そこには思考停止が起こっている。

自分から動こうとして始めたこと、あるいは誰かから言われてやらなければならないこと。いずれにしても、それを思考停止したままやっつけてしまうことはあまりにもったいない。どんなにつまらない指示だったとしても、それをコンセプチュアルにやりとげることによって、それはあなたにとってとてもおもしろいものになるし、あなたが一歩成長することにも繋がる。
あるいは、あなたが何らかの作品を創るとする。それは絵かもしれないし、文章かも知れない。あるいは他の人から見たら「作品」とは思えないものなのかも知れない。とにかく、あなたが何かを創ろうとするときに、ただ自分の好みのままにそれを創ることはたしかに快感だろう。美しい絵を描くことができたときにはとてもいい気分になれると思う。それでも、その絵を描くことには、「コンセプト」がしっかりとしていることが一番重要だ。作品を創るときには「コンセプチュアルであること」を忘れないでほしい。

と、ここまであまりにも抽象的に書きすぎた。「コンセプチュアルでありなさい」とだけ言われてもどうすればいいのかわからないと思う。ごめん。もうちょっとだけ具体的にどうすればいいかを書こう。
これから何かをしよう、創ろうというときに、まず以下のことを考えること。

・それをすること、あるいは創ることがどういう意味を持つのか
あなたがしようとしている行動にどういう意味があるのだろうか。
あなたが創ろうとしている作品はどういう意味を持つことになるのだろうか。

・それを自分がするということ、あるいは自分が創ることがどういう意味を持つのか
他の人にもできたかも知れないその行動、あるいは他の人にも創れたかもしれない作品。
それをあなたがおこなうこと、あなたが創ることにはどういう意味があるのだろうか。
それをするにあたって、創るにあたって自分にしかできないことは何か

・それをすることで世界をどう変えていきたいのか
これが一番重要である。あなたはあなたが行動すること、何らかの作品を創り出すことによってこの世界を変えることになる。それは誰にも気づかれないほどの小さな変化かも知れない。それでもあなたはその行動、作品によってこの世界を変えることになる、ということを忘れてはならない。さて、あなたはこの世界をどう変えるか?

以上のことはただ一度考えるだけではなくて、深く掘り下げること。
ぼくが先述した「美しい絵を描くこと」について、「美しい絵を描こうとすることはコンセプチュアルではない」という印象を与えたかも知れない。ぼくはそんなことは言っていない。「美しい絵を描くこと」がコンセプトであるのであればそれでいいと思う。ただ、その場合であっても、そのコンセプトについて深く掘り下げること。「なぜ絵を美しく描くのか?」という問いを持ってほしい。その絵を美しく描くことで世界をどう変えていきたいのか。「美しい」とはどういうことだろうか?

ぼくについて言えば、ぼくは「生命のようでもあり、都市のようでもある”あるもの”」について、それを"Asia"と名付けて、それを作品として制作している。

ぼくはこれらの作品が美しく見えるかどうか、ということはあまり考えていない。それよりもぼくが"Asia"という言葉でしか表わすことのできない"あるもの"について、それをより伝えられるようなものを創っている。そしてそれを、ぼくの手を動かすことなく、プログラミングだけで描く、ということもこの作品のコンセプトだ。「生命のようでもあり、都市のようでもある”あるもの”」、いわば有機体としか思えないものを、その有機体からもっとも離れたところにあると思われるプログラミングだけで描く、という実験。
言い換えるなら、「自然」の姿をもっとも「人工的」と思われるもので創り出すこと。「人工自然」と言ってもいいかもしれない。一般的には「自然」と「人工」という言葉は対義語として使われることが多いが、そのことの常識を壊そうとする試みでもある。

コンセプチュアルであること。あなたの行動と、あなたが創り出す作品は、深く掘り下げられたコンセプトに基づくものであればあるほどその存在理由を持つことになる。

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