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包丁、車、お金、ときどきスマホ

お小遣い

先日、息子の誕生日がありました。幸運なことに、私も妻も両方とも親(息子からすると祖父母)が健在で仕事もしていて、車で1時間以内の場所に住んでいます。なので、例年お誕生会は、私たち夫婦での1回、祖父母での2回と豪勢に行っています。とはいえ、夫婦からはだいたいブロンコビリーに行き、誕生日写真をとってもらうという他人任せでもありますが笑。

私の両親は、息子にお誕生日プレゼントを買ってくれます。私自身も子どもの頃、買ってもらいましたし、今は、息子達にも買ってくれています。

一方、妻の両親は、息子にお金をくれます。これで好きな物を買ってねと。実際には我々夫婦が預かり、好きな物を買いに行くという流れです。妻が小さいときもお金をもらって自分で買っていたそうです。

つまりお祝いの品くれるのは、私の両親は物で、妻の両親はお金です。実際には同じように思えますが、実は興味深い違いが出てくるのです。

長男は今お金の力を知っているので、妻の両親のところへ行きたいと言います(じいじばあばあるあるだと思いますが、行くとちょっとお小遣いがもらえることが多いからです笑)。一方、次男はシンプルにトミカが欲しいので私の両親のところへ行きたいと言います(かわいくおねだりするんですよこれが笑)。

物をくれる人には物をねだり、お金をくれる人にはお金をねだる。まあ自然な流れですよね。あ、今回はねだることへの是非はとりあえず置いておきます笑。

育った環境が違うからなのか、私はお金をほしがる長男の姿を見て実は違和感を覚えているのです。もちろんお金を使う練習は必要です。いつ何にどれくらい使ってどれくらいは残しておくのか。そのためにお金を渡して、お金を使うということを経験することは間違いなく必要です。その意味で、お金をプレゼントとして渡す意義は知っています。

お金は何かと交換できます。一般的には、買うと表現する行為です。お金があれば好きな時に自分の欲しいものと交換できるので、お金をほしがるのは非常に理解ができます。では、私は何に違和感を覚えるのでしょうか。そうです。自問自答です笑。もう少しお付き合いください。

あなたの能力?

お金は世間でも言われているように信用です。千円札の紙切れをみんなが価値があると信じているから、単なる紙切れが千円分の何かと交換できます。

だから、本質的には千円札の紙切れが欲しいのではなくて、千円札で交換できる物が欲しいはずですよね。また物だけではなく、体験、サービスなどの形がないものも交換できるので、体験やサービスがしたいとなるはずです。

でも、長男はお金がほしいと言います。ゲームソフトを買いたいときも、ゲームソフトが欲しいではなく、ゲームソフトが買えるお金が欲しいと言うのです。

ここが私が覚えた違和感の正体でした。

お金とは便利な道具です。価値を保存したり、交換したり、物の価値を評価したり。人類が発明した便利な道具です。ただ逆に言うと、道具にすぎません。

包丁は物を切ることができます。野菜などを細かく切ることによって、調理の幅が格段にひろがります。このとき欲しいのは包丁ではなく、細かく切った野菜です。

車は楽に速く移動することができます。ある場所へ移動するとき、車があれば遅くまで準備することができるし、目的地についても疲れていないのですぐに活動を始めることができます。このとき、欲しいのは車ではなく、目的地に楽に速く到着することです。

道具とはある目的を達成させるために必要なものであるだけで、道具自体に価値を感じているわけではないのです。

別の言い方をすると、包丁は物を切ることができる能力。車は速く楽に移動することができる能力とも言えそうです。当然、お金は何かを買えることができる能力。

だから、包丁が欲しい、車が欲しい、お金が欲しいというのは能力がほしいと同じではないのだろうか。そんな感じを私は思うのです。

そして、この「能力がほしい」という感覚に私は違和感を覚えたのです。

世の中には習い事の教室があふれています。習い事とはまさしく能力を上げるための事。能力がほしいという感覚は別に普通では?と思うじゃないですか。

でも、習い事の教室と先ほどの包丁・車・お金との違いは、自分の能力かどうかです。

包丁がない状態から、包丁を手に入れると、あたかも自分が物を切れる能力を手に入れたように感じます。しかし実際には、料理教室などに通い、包丁の使い方を習得した時初めて物を切れる能力を手に入れたことになります。

車がない状態から、車を手に入れると、あたかも自分が速く楽に移動できる能力を手に入れたように感じます。しかし実際には、教習所に通い運転の仕方を習い免許を得て初めて、速く楽に移動する能力を手に入れたことになります。

つまり、包丁と包丁の使い方のセットで、物を切る能力を得ます。車と運転免許のセットで、速く楽に移動する能力を得ます。道具と自分の能力がセットになる必要があります。

道具だけではその能力を得たことにはなりません。

お金の使い方とは

では、本命のお金に話題をうつします。お金とは道具です。ですからお金の使い方とセットで初めて物を買うことができる能力となります。

「え?お金の使い方なんてレジで出すだけじゃん。」そうお思いの賢いあなた。そうなんです。それで現実に物を買えてしまうんですよ。でもね、よーく考えてみてください。

包丁だって、とりあえず振り下ろせば物は切れます。車だってアクセル踏めば動きます。幼稚園生だってできます。でも、それって「包丁を使えます」とか、「運転できます」って言えるでしょうか。

安全のために猫の手にするとか、みじんぎりは包丁の手前の部分だけ動かすとか(すみません。名前がわからずこんな表現になってしまいました笑)。他にも切り方とか手入れの仕方とか、そういったことを学んで実際に使って、包丁が使えるようになっていきます。

運転はもっとわかりやすいですね。アクセル、ブレーキの加減はもちろん、車線変更、交通ルールなど技術だけでなく、知識もある程度必要になります。ちょうど昨日、私事故に遭いましたし・・・笑。あ、今のところ打撲ですんでいます。ご心配していただかなくて大丈夫です(だれもしてねーよ笑)。事故を起こしてしまう運転では、車を運転できるとはいえませんよね。

そう考えると、お金をレジで出すだけで、お金を使えると言えるでしょうか。私はそう思えません。お金の使い方を習得しないから、例えば家計が赤字になり続けたり、何かにお金をつぎ込みすぎたり、最悪の場合詐欺にあったりするのではないでしょうか(さすがに言い過ぎか・・・)

では、お金の使い方って何でしょうか。残念ながら多分世間にこれ!という決定版のものはないです(私が知らないだけかも知れませんが)。絶対的な使い方はありませんが、私は心の在り方が大切だと思うのです。

お金は大事だけど、お金だけに執着しない心。お金に振り回されるのではなく、自分の価値観に沿ってお金を扱う心。お金は必要不可欠ではありますが、お金を最重要項目に考えない心。そういった心をもてれば、お金と健全に付き合うことができるのではないかと思います。ですから、お金の使い方というのは、心の在り方と私は捉えています。

ですから、長男にお金を渡すと同時に、心の向き合い方も考えてもらおうと思います。

余談ですが世間に、お金の使い方がないように、スマホの使い方もないと私は思っています。直感的にスマホは使えるようにできていますが、それは単に包丁を振り下ろしたり、単にアクセルを踏んだり、単にレジにお金を出しているだけに過ぎません。

特に、中学生のスマホ依存はかなり高くなっていると思います。お金の使い方、スマホの使い方について、一度考えてみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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