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希待という造語について

荒木さんのVoicyで『まとまらない言葉を生きる』について紹介されていた。

期待と希待

期待するということ。

その人のためを思って抱くように見えて、時にそうでないようなこともある。

「期待」というのは、必ずしも純粋な思いを託した言葉ではない。例えばオリンピック選手に「期待してます!」と言ったとすると、「一人のアスリートとして、あなた自身のためにプレーしてほしい」という意味にはならない。どちらかというと、「メダルをとって、応援している人たち(私たち)を感動させてほしい」というメッセージになる。
『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹著

この場合の期待は、重荷になってしまうのだ。

自分が別に臨んでいないのに、勝手に期待されて、そして勝手に失望されていたなんてことさえあるかもしれない。

相手の期待に応えたい気持ちと、本当にその物事に向かいたい気持ちは自分の気持ちはイコールだろうか。

病院や介護現場では、このような期待もあるのかもしれない。

「期待する側」は、純粋に「病気の状態が良くなってほしい」と思っていたとしても、「期待される側」からすれば、どうしても「扱いやすい患者でいてほしい(でないと病気も良くなりませんよ)」というメッセージがチラついてしまう。

すべてそんなにうまく揃うわけではないから、考えてしまう。

どういう状態が理想なのだろうか。

希待という造語

ここで紹介されていたのが希待だ。

この言葉は造語で、このように説明されていた。

〈希待〉とは、〈人間の善性や自己治癒力〉を信じ、その〈可能性〉を〈無条件〉に信頼しようという姿勢のこと。ぼくはこの言葉を、見返りを求めず相手のことを信じてみようという態度のことだと解釈した。

きっと、人の生き方を見て、経験からこっちのほうがいいとか思うことはあるかもしれない。

そして、本当に無知で自分で考えた結果、残酷な結末が待っているなんてこともあるだろう。

それでも、ぼくは出来る限り、希待をしていけるような人でありたい。

以上です。ほんじゃーにー。

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