少年院を出て私は思い込みだけでここまで来た
自分の人生がどうなっていくのか、いつも不透明だった。
中学はろくに行っていないし高校はフリースクールだし、定職にも就かないまま少年院送りになったし。
同級生が大学へ行って就職活動をしていた頃、私はほぼ無一文で世界を旅していたのだから。
将来とかこの先とか、そんなものが確実に手に取れるレールを歩いたことがない。
今日はそんな話をつらつらと。
自分が思う自分になるという胡散臭い現実
引き寄せの法則とか思い込みの心理とか、正直胡散臭く感じるだろう。
自己啓発にまつわる本はたくさん読んだが、どれもある人から見ればインチキ臭いというのは理解できる。
だが、現実にはそのような効果効力がある。
引き寄せの法則は相当な集中力がないと使えないけれど、思い込みの心理はどんな人にも応用できるものだ。
分かりやすいところでいうと「恨みつらみ」という感情。
好きは嫌いになって、嫌いは許せないという恨みつらみに変わって、ストーカーだの殺人だのという犯罪行為に発展する。
恋愛はほとんど思い込みの心理で成り立っているし、営業マンやコンサルタントも思い込みの心理をよく利用している。
同じように、「自分が思う自分になる」というのもあながち間違いではない。
歳を重ねて自分がどんな人間か理解してくると、人は「私はこうだから」と良くも悪くも自分を受け入れるようになる。
それがいい意味なら問題ないが、悪い意味で開き直ったり他人に受け入れることを強要する人間もいる。
歳を取ると変わることが難しいといわれているのは、悪い意味で自分という人間を受け入れている人が多いからだ。
「私はこうやって生きてきたの!今更変われないの!」
そんな風に自分を自分で決めた柵の中に囲って正当性を叫ぶようになる。
そんな姿が若い子から見て惨めに見えるのは、当然といえば当然だろう。
若い頃は人の話なんて聞かずに自分の思いだけで突っ走っても、取り返しもできるし失敗から学ぶ「余白」も十分にある。
だが、歳を重ねると経験が邪魔して「余白」がどんどんなくなる。
いつまでも人の話を聞いて自分の中に取り入れることができる人はとても少ない。
私はいくつになっても「スポンジ」でいたいと思っている。
たくさんのものを吸収して、たくさんのものを吐き出す。
そうして経験を増やし精査し、自分が思う自分という柵をいい意味で広く持つべきなのだ。
普通じゃない人生を自分が幸せに生きるために
どこの誰が見ても、私の人生は普通じゃない。
自分でもそう思うのだから、学校を出て会社員になって結婚して…なんて人から見れば異常もいいところだろう。
私はあえて、普通の人生を生きるのをやめた。
会社員はどう考えたって向いていないし、無理してやることではないと自分で決めた。
それでもお金がなければ生きてはいけないから、食い扶持を稼ぐためにあらゆることに手を出した。
結果フリーライターとブログ運営、そして株にたどり着いたけれど、水商売も色々なアルバイトも経験した。
お金がなくても生きていけるなら…とホームレスもやってみた。
とにかく好き嫌いせずに片っ端から経験して今の形に落ち着いたわけだ。
ごはんを買うお金もないくらい貧乏だった頃、どうしてこんなに切羽詰まっているのだろうと考えた。
様々な原因が思い浮かんだけれど、結果、自分がここへ来たくて来たんだという理由が最もしっくりきた。
例えどんな状況であろうと、自分が選んでここへ来たと思えば誰かやなにかのせいにする必要がなくなる。
DV男と付き合っていたときも「なんでこんなに殴られるんだろう」と思ったが、その男を選んだ自分が自分で招いたわけだ。
貧乏なのもお金持ちなのも、不自由な暮らしも自由な暮らしも、そこへたどり着くまでの選択をしたのは自分だ。
状況を変えたいなら変わるべきは環境や他者ではなく、自分しかいないだろう。
見方を変えてやり方を変えて、あとは根気と精神力だけで思う場所に行くまでやり抜くしかない。
最も重要なのは、どんな状況に置かれても「絶対にそうするんだ」という意思を曲げないことである。
臨機応変に対応することは大切だが、答えにたどり着くまでの式に柔軟性を持たせればいいのであって答えを変える必要はない。
そこに世間体や大多数の意見は必要ない。
幸せの価値観が人それぞれ違うのと同じように、正解はどこにもないのだから。
お金があるから幸せなのか、幸せだからお金があるのか
収入と貯蓄額は幸せとイコールにはならない。
だが、不幸せとはイコールになるだろう。
うつ病患者に100万円をあげたら症状が改善されたというヨーロッパの大学の論文がある。
うつ病の症状は改善されたかもしれないが、彼らが幸せを継続して感じられたかどうかは別だ。
お金があれば一瞬の欲を満たすことはできる。
欲しいものが買えて食べたいものを食べられて、性欲も物欲も支配欲すらも満たせるだろう。
しかし、幸せというのは続かなければ幸せではない。
その一瞬が幸せでも次の瞬間に地獄を感じれば、人はそれを結果的に不幸だと認識する。
そういう意味で、お金があるということは幸せを継続させるだけの「余裕」があることに繋がる。
逆に、不幸せとはイコールなのである。
お金はあくまでも引き換え券だ。
お金を使って幸せを得るのであって、お金は幸せそのものではない。
これを履き違えている人が多いが、お金持ちがなぜ慈善事業に投資するのかよく考えてほしい。
お金を持つこと自体が幸せなら、人のためにお金を使う理由はないはずだ。
だが、お金持ちの多くが貧困や環境問題にお金をつぎ込むのは「お金があるから幸せではない」ということを証明しているからだろう。
面白いもので、お金は多く持つものの元に集まる性質がある。
使い方を間違えれば一瞬で消え去る面白さもあるが、性質を理解している人の元には求めずともどんどんお金が集まってくる。
自分もそこへ行きたいのなら、自分の幸せの価値観をよく知るべきだろう。
不幸であることをお金のせいにしているなら、引き換え券を手に入れて欲を満たしたいだけだと自覚することだ。
ごはんを買うお金がないならその辺の雑草と公園の水でお腹を満たせばいいし、必ずしも屋根のある場所で寝る必要はない。
キレイな服を着ることは誰のためなのか、財布に何十万も何百万も持って歩くことが誰のためなのかよく考えるべきである。
私は私らしく生きて死ぬ
「人生楽しそうだよね」と言われたことがある。
確かに楽しく生きているし、今のところ自分の人生に不満はない。
これからどうなるんだろうという不安と同じだけ楽しみがあるし、分からないことを悩んでも仕方ないと思うから悩むこともない。
今は年収が800万あっても来年には0かもしれないし、逆に8000万になってるかもしれない。
分からないからこそ楽しくて生き甲斐があると思うのだ。
どうせ死ぬなら人生を悲観しても意味がない。
なんでも面白がって突っ走ってみたら、意外と幸せはすぐ近くにあったりするものだ。
自分がどんな風に生きて死にたいかよく考えてみよう。
常識や世間体や大多数に惑わされる必要はない。
自分がなにに幸せを感じてどんな風に死にたいのか、人生を決める物差しはそれだけだ。
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