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ヒエラルキーの外へ脱出=再野生化

ふとしたタイミングで知ったこの本をパラパラと読んだ。

バラモン左翼、ポリコレ知識人(笑)、リムジンリベラルといった「大衆にとって耳障りの良い」ことを吹聴する権力亡者連中がいわゆる「僧侶」階級であり、テック企業を始めとする一握りの資本主義エリートが「貴族」階級、そしてそれ以外は平民=農奴階級となるいわゆる二極化社会を、かつてのヨーロッパ中世になぞらえて、そのディストピアぶりを描き出している。

ただ、ここで描かれる社会には抜けているところがある。

それこそがまさに欧米社会、欧米思想の傲慢と限界である。

というのも、この「新しい封建制」も、この著者がそれに対抗すべく市民の連帯云々と言っているのも、全てはヒエラルキー的支配構造の中のことに過ぎない。

もっといえば、ヒエラルキー的支配構造が自明の存在であり、それ以外には選択肢は存在しないという極めて閉塞した社会観に基づいている。

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最新の考古学、人類学の研究、そして私独自の日本の縄文及び戦国時代研究、さらには逃亡奴隷の国家であるマルーン共同体、奴隷制国家の支配の及ばないグレーゾーン「ゾミア」の研究などから、「そもそもそういった平民、農奴=家畜を支配するようなヒエラルキーを拒絶して生きてきた人達」の存在を等閑視しているところに、こういった「新しい封建制」への反対意見の限界があると考えられる。

なぜなら現在はヒエラルキー内の階級闘争ではなく、ヒエラルキー構造そのものに対する疑念=ウェストファリア的近代国家そのものに対する疑念が大きくなっているから。

もっと言えば、近代とは「ウェストファリア的に規律された中世」とも言えるわけで、その「規律」が緩んだり消滅したりして、かつての中世が「解凍」されてきたのが現代だとするならば、近代以前にヒエラルキー的奴隷制支配を逃れた者、あるいはさらに遡って、そういった支配構造そのものを拒絶しながら社会を形成してきた社会の在り方などを考える方が、より「新しい封建制」への反撃であり、代替(オルタナティブ)的手段たり得るのではないか?

その代替手段を一言で言えば「野生の原理に基づく社会」であり、生産力向上のために採られた現代社会の支配的原理である「家畜(奴隷)の原理に基づくヒエラルキー社会」をこれで解毒していく必要があるのではなかろうか。

そこにこそ、近代国家の最後の残滓である「テクノクラート的中央集権政府」と、それに接ぎ木された「新しい封建制」という、「家畜=奴隷の原理」に対する対抗軸を見出せると考える。

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