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表現するチカラの話




先日、こんなツイートをした。



本当に何気ない会話だった。
彼女は「だから、やってて良かったと思う。」と言っていた。僕はそれを聞いて、感情を表現する手段を持っている彼女のことを、尊敬すると共に、羨ましく思ったのを覚えている。




この言葉を思い出したのにはキッカケがあった。

Eテレにてレギュラー放送が始まった、サカナクション、山口一郎による音楽実験番組『シュガー&シュガー』。その初回放送のゲストである平手友梨奈との対談を、僕は夜ご飯を食べながらそれとなしに眺めていた。


一郎さんの雰囲気作りが凄く良かったと思う。ブランコというのも、学校帰りのお喋りのようで、日常感があり、気軽さがあった。欅坂のセンターをやっていた当時の心境など、少し聞きづらいようなことも穏やかに聞けるような場の作り方で、安心感があった。
けれど、そこで平手友梨奈から語られた答えは、核心からは離れたものだったように感じた。もちろん、話した内容も真実であったとは思うが、センターに立つ悩みなどもある程度予想のつくような話で、その心の本心までは見ることは出来なかった。

でもそれは、当然のことだと思う。
本人の中で、もっと様々な思いや葛藤があったであろうことは想像できる。けれど、初めて対談する相手にその全てを打ち明けて、とんでもなく重い空気にする訳にもいかないだろう。加えてそこは、全国に放送される場なのだし。それにグループが新たな1歩を踏み出そうとしている今、余計なことを言うべきではないということは、彼女が誰よりも考えていることのような気がする。

だから、その話に対する不満感や、疑心感というものは特になかった。ただ、彼女がまだまだ自由にはなれず、苦しんでいるような気がして、それが少し悲しかった。



しかし、そんな中でも僅かに本音を漏らしたのではないのかな、と思えた言葉が一つだけあった。


「結局、、伝えても、伝わらない人とか、理解してもらえないことの方が多いなって、どこか思っちゃって、、、多分、、諦めてる自分もいるんだと思います、、。」


じっくり考えながら、悩みながら、言葉を絞り出しているような様子だった。


これは僕の勝手な想像にすぎない。
けれど、もしその想像が許されるのなら、彼女が僕と似たような人間だと、勝手にも思い込んでいいのなら、

彼女は、「誰にも理解されない」ことに悩んでいるのではないだろうか。

僕は、ずっとその悩みを抱えて生きている。周りからのイメージと、本当の自分との差に苦しめられながら生きている。自分の人生観や、些細な物事に悩むことを繰り返し、それを話せる人、理解してもらえる人がいないという孤独に、苦しんでいる。
だから僕は、いつも自己完結を続けてきた。自分自身の悩みを自分自信で聞き、何とかこねくり回して、自分を納得させる日々を過ごしてきた。

もしかしたら、彼女もそうなのではないだろうか?


これらはまるっきり僕の行き過ぎた思い込みだという可能性は、十分にある。いや寧ろ、思い込みであった方がいいのだ。理解してくれる人がいないことほど辛いことは無い。もし彼女にちゃんとした理解者がいるのなら、それはとても幸せなことだ。

でももし、彼女が孤独なのだとしたら、あの言葉を話す時、とても緊張したはずなのだ。「理解してくれる人がいない」という本音が「理解されない」ことほど辛いことは無いと、自分は思うから。


「いやその通りだよ!」


一郎さんが、とても明るい「そんなもんだよ!」みたいなテンションで、まず一番に理解を示してくれたことが、自分のことのように嬉しかった。否定や、自分の意見を押し付けるのではない、とても優しい一言だなと思った。
その後の、「仲良くなる」という考えも、僕らより長く人生を送ってきたからこその説得力がある話で、とても素敵だった。少し心が軽くなったような気がした。



けれど、この後に一郎さんによって告げられた言葉が、僕にとってのキッカケになってしまった。


「違和感に人は魅力を感じると思うんだよね。僕はだから、平手さんは、すっごい苦しいだろうし、すっごいめんどくさいなぁと思ってるだろうけど、その中で自分をちゃんと保とうとするじゃん。その保とうとしてることが、たぶん魅力になってるんだと思うんだよね。普通は迎合するからさ、売れたいとか、人に知られたいとか、気に入られたいとか思うとさ、人ってどんどん迎合するじゃん。でも、僕が平手さんがアーティストだなって思うのは、自分があって、それを曲げたくないって思いながら、こねくり回しているところが、、、だから損してるなって思ったし、逆にそれが魅力なんだろうなぁって思うときもあるけど。」



あぁそうか、彼女は表現する手段を“持っている”んだな。

もしかしたら、僕と平手友梨奈という女性が抱いている違和感は、同じなのかもしれない。その葛藤の正体は、同じなのかもしれない。でも、決定的に違うところがある。
僕とは異なり、アーティストである彼女は、その違和感を、その葛藤を、表現する手段を“持っている”のだ。

ダンスで、演技で、彼女は自分の思いを表現することが出来る。その全ては伝わらないにしろ、誰かの心にその思いを届け、響かせることが出来る手段と、力を、彼女は持っているのだ。彼女の葛藤は、その表現するチカラをもって魅力に変わる。彼女の違和感という魅力は、そのチカラをもって多くの人の心を震わせる。でも僕の葛藤は、誰にも届かない。僕の違和感は、ただ自分を苦しめ続けるだけでしかない。
そんな気づかなくてもいいことにまで、気づいてしまった。

そうして僕は、いつかの友達の言葉を思い出すことになったのだ。テレビを見つめながら、あの時と同じように、尊敬と、羨ましさを感じていた。




noteも、表現の手段であることに変わりはないことは確かだ。実際にこの話だってnoteに書くことで救いを求めている。けれど、「言葉に出来ない思い」というものはある。寧ろのその方が多いほどに。その全てを書き殴る事だって出来るのかもしれないが、それを正しく伝わるように書き上げるだけの文章力は自分には無いし、そんなことは恐ろしくてできない。「理解されない」ことほど、怖いものは無いから。
だから、そんな自分の思いの全てを込められるような、誰かに伝えられるような術を持っている人を、僕は尊敬すると共に、羨ましく感じるのだ。

でもそれは、表現するチカラを持つ平手友梨奈だって同じことなのだろうなと思う。彼女も、自分の表現力の至らなさに苦しんでいたであろうことは推測できる。僕にとって十分だと思えるものでも、彼女にとっては不十分で、どんなに羨まれるような力を持っていようと、自分が納得出来なければ、満たされることは無いのだろう。


だから、何度も書くしかないんだ。
いつか、納得のいくものが書けるように、自分の全てを込めたような文章が書けるように、ただ、書き続ける。「書く」という手段を、僕にとっての表現するチカラにするために、そしていつの日か、誰かの心を震わせられる言葉を綴ることができるように。

思いを言葉に乗せて、これからも書いていこう。







……そうやって、僕は今日も自己完結を終える。





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