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記憶の奴隷達のレビュー:インスタレーション的な実験作

『記憶の奴隷達』はハンドアウトを全体公開可能、交換可能という事前情報だけでも、ユニークな作品であることが窺い知れます。実際、マダミスとしての要素や体験はもちろんありますが、プレイ後の感想としては「インスタレーションに参加した」というのがより正確な表現でしょう。
ただしエンターテイメントとしてのマダミスという観点では、本作は正直なところ出来はあまりよくありません。純粋な娯楽として楽しむのであれば、ほかの作品をプレイした方がいいでしょう。
しかし公演として耐えうるアート的な作品としては、いまのところ唯一無二な存在であり、そもそもアートとしてマダミス(的なもの)が成立しうるのだという蒙を啓く画期的な作品です。

『記憶の奴隷達』はさまざまな意味でモダンアート的です。
ほかの一般的なマダミスもデータベース消費という観点ではポストモダン的ではありますが、大きな物語の頸木からは抜け出せていません。しかし本作では物語が構造解析されて意図的に不在になっており、きわめてポストモダン的です。
ハンドアウトが交換可能というのはその象徴です。

なにより『記憶の奴隷達』はデュシャンの「作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成される」という言葉を体現しています。まさにプレイヤーが体験することで初めて完成します。
それゆえに同じ『記憶の奴隷達』であっても公演ごとに異なる"作品"ですし、同じ公演を体験していてもプレイヤーごとに"作品"は変わります。
マダミスは一度しかプレイできませんが、テンポラリーでサイトスペシフィックという観点からもアーティスティックであり、能にも通じています。

ここまではアートとしての側面を見てきましたが、一方でエンターテイメントとしては残念ながら満足度が高いとは言えません。
納得感とカタルシスに欠けているのが最大の理由です。端的には、一度しか体験できず、役柄を選べず、同じ金額を投じているのに、エンタメとしての体験の上限が異なる不平等さが存在しています。
またゲームにはルールがあり、レールがあります。それによって体験の質が担保されていますが、自由意思に制約が課されてもいます。しかし鑑賞者の中で"完成"されるためには自由意思は欠かせず、その対立がうまく解決されていません。
納得感に関していえば、プレイヤーにもう少し動機を与えることで改善できます。それは起点でもあり、エンタメとアートで矛盾するわけでもないので、もう少し作品の質を高めることができたでしょう。

『記憶の奴隷達』はモダンアート的でありますが、軸足はやはりマダミス、つまりエンタメにあります。そのエンタメの完成度が必ずしも高くないことが下部構造にも影響し、毀誉褒貶につながってしまっています。

マダミスを含むゲームをはじめとするオタク文化は、一般的にはサブカルチャーとして受容されています。
しかし本作はハイカルチャーと接合する作品です。ゲームとしてのエンターテイメント性を抱いたまま、ハイカルチャーにもなっているというのは、マダミスのみならずゲーム全般でも稀有な存在です。
マダミス層よりもむしろアート受容層にこそ体験してもらうべき作品かもしれません。

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