エッセイ 服部容子さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。
このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2016年6月号-7月号より日本声楽アカデミー会員のピアニスト、服部容子さんのエッセイを掲載いたします。


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「時空」
服部容子 ピアニスト

20年ほど前に、親しくしていた方が亡くなり、落ち込んでおりました。
大海先生の元、その頃開かれていた勉強会で、大海先生が
「今日は何でも聞いていいよ」とおっしゃったので、
「人は死ぬとどこへ行くのですか?」と質問しました。
先生は目の前のお茶碗を指して「今私たちに見えているこの茶碗はここにあるかどうかわからない。触った感覚も人が勝手に感じているものだ。この時空と重なって、別の時空がここに存在する可能性がある」と教えてくださいました。
そこに、この世を去った方々はいるのかも、と。
目に見えているものを信じ、耳に聴こえるものを信じて日々生活しています。
そんな中、最近ますます音楽の存在は不思議です。目に見える楽譜と媒体、耳に聴こえてくる音。しかしそれは【音楽】とイコールではない。
音楽って何だろう。
奏でられた瞬間に消える音。しかし聴いた人の中に音楽は存在し続ける。
正しい音程、正しいテクスト、正しいリズムで奏でても
感動を生まなかったり、涙腺を揺らさない音を奏する再現音楽家になっていないか。
自分に問いても、それは観客にしかわからない。
観客がいなければ音楽家は成り立たない。
量子力学の基礎の一つである不確定性原理では
運動量と位置、この2つのことは一度に調べられないのだということがわかってしまった。
音楽と似ている、と思いました。
今、奏でた音を聴いてしまった瞬間に過去になってしまうから。
しかし音楽そしてオペラは【時空】を超えた【表現】を持つ。
だからこそ芸術の中で【音楽】は一番レベルが高いといわれる。
【音楽】を提供する者と、【音楽】を聴き感じる者が同じ空間と時間に存在するから。
その空間と時間の中で、感動を生む技術はあるのか。また、それを技術と呼んでいいのか。
いずれにせよ確実に【感動】はエネルギーの伝達である。
それは【時間】のないところに存在しない。
Time is Money.
《忙しい》という文字は《心を亡くす》と書く。
「~だから忙しいって言わない」という私に対して友人は
「金八先生みたいなこと言ってる!」と笑う。
アインシュタインの相対性理論について主人が熱く語っている間に
何度も睡魔が襲ってくる!
しかし相対的に宇宙と地球では【時間】が違うらしいことは私に何かを植え付ける。
【空】と【宇宙】がイコールではないにしても
空の発する無限の映像が私たちにたくさんのことを感じさせる。
悟りを開いた弘法大師は、洞窟から空と海を見ていた。
ロシアの12の月の神は森と空を見る。そして彼らは教えてくれます。
「“時間”それはこの世界のあらゆるものの中にあって、一番長くて、一番短く、一番速くて、一番遅いもの。いくらでも細かく分けられ、どんなにでも大きく広がるもの。一番ぞんざいに扱われ、後からそれが悔やまれるもの」
この歌詞のほかにも、メッセージ性の強いところが満載の
林光先生の『森は生きている』で指揮デビューした私です。
この7月好評につき静岡室内歌劇場にて再演をします。
最近指揮の仕事をして、【時間】についてより考え、感じるようになりました。
そしてただいま私がワクワク楽しみにしているのが、第三回目を迎える《寺劇場シリーズ》。
『La Boheme』 ほぼ全曲上演いたします。
《寺》という日常生活において魂と直接触れ合う場所と、《劇場》という日常を離れて魂が直接喜ぶ場所が合体したネーミング。《テラコヤ》と読むけれど《寺子屋》でないところが味噌です。演出家中村敬一先生の命名です。

無こそがエネルギーを持つという考えを最近改めて強く持ちます。
作品に対して【無】でいたい。
時間的芸術である音楽に携わって、
多くの方とかかわり、音を奏でる私は
本当に【音楽】を産めるよう今日も精進いたします。