エッセイ 松平敬さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご 寄稿いただいております。この note では「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。 今回は 2019 年 2 月号-2019 年 3 月号より日本声楽アカデミー会員のバリトン歌手、松平敬さんのエッセイを 掲載いたします。 

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「声とことば」
松平敬 バリトン 

 
「ことば」には、「意味」としての側面と、「音響」としての側面の 2 つの要素がある。例えば「りんご」とい う言葉を日本人が聞けば、あの赤い果物を想像するであろう。これは「りんご」ということばの「意味」である。しかし日本語を理解しない外国人にとっては、これは声による無意味な「音響」に過ぎない。ことばは、本来無意味な音響に、恣意的に(各言語固有の)意味を当てはめているものなのだ。 

声は、ことばを発することのできる唯一の楽器と言われることがあるが、ことばの音響性に着目すれば、声は、シンセサイザーのように様々な音響を自由自在にコントロールできる特殊な楽器であるとも言える。ヴァイオリンなどの楽器で、奏法を変えることで音色を変化させることができると言っても、声なら朝飯前の、「アイウエオ」という母音を発音することすらできないのだ。 

20 世紀後半以降の声楽曲では、声の音響的な特性を作品に取り込む試みが様々な作曲家によって行われた。 本稿では、20 世紀後半を代表する作曲家、カールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen (1928-2007)の『シュティムング STIMMUNG』(1968 年作曲)という作品を例として紹介したい。6 人の歌手に よる演奏時間 70 分ほどの本作で演奏されるのは、基本的にただ一つの和音のみである。この、一見単調な素材 を使って展開されるのが、母音を微妙に変化させることによって生じる、倍音のメロディーである。小さな声で、 少し響きを鼻にかけながら、同じピッチを保って「UOAEI」とゆっくり母音を変化させると、強調される倍音 が低いところから高いところへ変化する、つまり上昇する倍音のメロディーが聞こえるだろう。つまり、母音を様々に変化させれば、倍音によるメロディーが様々に変化するのだ。母音がわずかに変わっただけで強調される倍音が大きく変化するので、母音の微妙な違いを正確に表すため、シュトックハウゼンはすべての「歌詞」を発 音記号で記譜した。『シュティムング』では、6 人の歌手が作り出す倍音のメロディーが一致したりずれたりする ことによって、たった一つの和音の中に隠れた、笛のような音色のメロディーが複雑に変容していく。この作品の面白さはこれだけではない。基本的に無意味な母音(倍音)の連なりがしばしば、それに似た言葉へと変形さ せられるのだ。例えば「AIEI」という母音の連なりの繰り返しが、突然「Friday」という言葉に置き換えられ ることで、無意味な音響から「意味」が浮かび上がってくる錯覚が生じる。そして、それが何らかのメッセージ に結実することはなく、また無意味な音響へと戻っていく。  

ちなみに、このような倍音唱法は、いわゆる「現代音楽」の専売特許ではない。倍音によるメロディーといえば、モンゴルのホーミーを思い起こす人も多いだろう。両者の発声法は微妙に違っているが、母音の変化を倍音のメロディーに置き換えるという基礎的なアイデアは同じだ。倍音唱法は、意外にもベル・カントの国、イタリ アのサルデーニャ島においても、「カント・ア・テノーレ canto a tenore」という名称で伝承されていることも付け加えておこう。 

話をシュトックハウゼンの『シュティムング』に戻そう。筆者は数年前にこの作品を東京で演奏した。唱法が特殊なだけではなく、楽譜もこの作品独自の特別な記譜法が用いられており、それらの習得のため、合宿さなが らの 1 ヶ月弱に及ぶ集中的なリハーサル日程が組まれた。音楽の学習を始めた人が五線譜を読めるようにソルフェージュの訓練を必要とするように、この作品独自の記譜法に親しむための「新しいソルフェージュ」の訓練のため、このような異例なスケジュールが組まれたのだ。そして、この公演のために、ユリア・ミハーイというドイツ人歌手が、アンサンブルのリーダーとして招聘された。『シュティムング』を初演するだけでなく、何百回とこの作品を作曲者監修のもと再演した歌手から、彼女はその演奏法を学んでおり、この作品の演奏のノウハウに通じていたからだ。つまり、彼女は作曲者直伝の演奏法の継承者ということになる。伝統的な五線譜による楽譜ですら、作曲者のイメージのすべてがそこに書き記されている訳ではないのに、それが特殊な記譜法と演奏法を必要とする作品であれば、楽譜だけに頼って演奏する危険性は明らかであろう。実際、そのリハーサルの過程では、楽譜に書ききれない、しかし作曲者がこだわっていた細かなニュアンスや演奏法が彼女から伝えられた。この作品は、声と「ことば」の関係性だけではなく、楽譜という「ことば」のあり方のあり方に関する問題も孕んでいたのだ。この作品に関わることは、声楽家にとって自明と思われがちな、声、ことば、楽譜といった概念を考え直す良い機会となった。「皆さんもお気軽にどうぞ」、と薦められる作品ではないが、声の倍音を聴いてみるトレーニングからは、得るものが大きいのではないだろうか。