エッセイ 甲斐栄次郎さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2017年8月号-9月号より日本声楽アカデミー会員のバリトン歌手、甲斐栄次郎さんのエッセイを掲載いたします。

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「ウィーン国立歌劇場での10年《ラ・ボエーム》」
甲斐栄次郎 バリトン
ウィーン国立歌劇場は、世界で最もアクティブな歌劇場と言えるだろう。世界を飛び回る多くのスター歌手が出演する舞台は、10か月間ほとんど休みなく続く。9月に始まり6月末日まで続く1シーズンの公演数は約300回におよび、演目数は50~60演目となる。原語上演を基本とし、作品はドイツ、イタリア、フランス、ロシア・・・と多岐にわたる。
劇場専属のソリスト歌手の仕事は、脇役から主役まで広範囲に及ぶ。しかも実際に舞台で歌っている役の2倍、3倍もの数のカヴァー(代役としての控え)も務めなければならない。私自身、2003年9月のデビュー以来、急病の歌手に代わっての急きょ出演という“ジャンプ・イン”は、当初の想像以上に何度も経験することになった。

ウィーン国立歌劇場で歌っていた10年の間、オペラのスコアを開き、譜読み、暗譜、本番をどれだけ繰り返しただろうか。毎日のように仕事場である歌劇場に通い、劇場所属の約10名のコレペティートアの助けを得て、譜読みから役作り、暗譜までを行う。そして、公演前には演出アシスタントから芝居についての説明があり、ひととおりの動きを把握したところで、キャスト揃っての稽古となる。レパートリーの演目であれば、ほとんどの場合、キャストが揃っての稽古は2日間しかなく、そのまま次の日には本番ということが多かった。一方、久々に取り上げられる再演の作品や、近・現代の音楽的に複雑な作品では、丹念な舞台稽古とオケ合わせも予定された。勿論プレミエの作品に関しては、6週間かけてじっくりと仕上げられる。
今振り返れば、大変な毎日だったように思える。しかし、オペラ歌手が純粋にオペラ歌手として生きていける劇場での幸せな日々に、疲れや、苦労を感じたことは10年間一度もなかったように思う。

新たに準備する役については、劇場から書類で知らせが来る。記録として残してある書類をめくってみると、初めの3か月間で既に16役がリストされ、10年間で、最終的に習得した役は60役を超えることになる。実際に舞台で歌った役はそのうちの42役である。
毎月、翌月に歌う役とカヴァーを務める役、そして本番の日程が記された書類が届く。デビューした9月に受け取った書類では、10月4回公演の「ラ・ボエーム」のショナール役は、当初カヴァーを務めることになっていた。しかし、本キャストが芝居の稽古に入るころ、最終日の1回だけ出演することを告げられた。稽古を見るチャンスはあるものの、実際に他のキャストと一緒に芝居の練習をすることはなく本番の日を迎えることになる。そのため、稽古中は、まばたきするのも惜しんで、キャストたちの動きのメモを取り続けた。特に第一幕、第四幕の男四人のシーンは、ひとつひとつの動きに四人の確実な連係プレーが要求されるため、音のタイミングも含めて、じっくりと観察する必要があった。そして、アパートに帰るや否や、小道具の代わりになるコップや皿、椅子、テーブルなどを使って、何度も独りでリハーサルを重ねた。もちろん、そこに相手役はいないので、その立ち位置を思い出しては、あたかもそこにいるかのように、すべての動きを繰り返し、考えなくても自然に動けるようになるまで練習をした。
多少の緊張感のもと、本場の日を迎えることになるのだが、前日に行われた1時間ほどのマエストロ、演出アシスタント、コレペティートアとの稽古で、気持ち的には準備万端、遂に幕は上がった。
2幕終了後の休憩の時、ホッと一息ついたところで楽屋のドアをノックしたのは、当時の総監督だった。その時、2年目の契約延長のお話しを頂くことになった。

その後、契約は1年ごとではあったが継続されることになり、10年間で「ラ・ボエーム」には画家のマルチェッロ役としても出演し、合計で37公演、最も多く出演した舞台となった。フランコ・ゼッフィレッリ演出のこの舞台はプレミエが1963年で、現在も変わらぬ演出での上演が続いている(2016年11月には424回目)。ちなみに、1963年11月3日の公演時の記録を見ると、指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン、ロドルフォ:ジャンニ・ライモンディ、ショナール:ジュゼッペ・タッデイ、マルチェッロ:ロランド・パネライ、コッリーネ:イヴォ・ヴィンコ、そしてミミ:ミレッラ・フレーニとある。

甲斐先生写真

ウィーン国立歌劇場のラ・ボエームに出演した最初の時の楽屋での写真とポスターの画像