エッセイ 西村悟さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2012年10月号-11月号より日本声楽アカデミー会員のテノール歌手、西村悟さんのエッセイを掲載いたします。

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「私の一曲~この清らかな住まい」
西村悟 テノール

私の一曲、それはグノー作曲オペラ「ファウスト」より“この清らかな住まい”です。
私にとってこの曲は大好きな曲であると共に、沢山の意味を持つ“大切”な曲でもあります。最初に出会ったのはもう10年も前でした。その時はつたないフランス語でただ歌っているだけ、今考えると恥ずかしくなるような・・・当然大した愛着もなくそのまま引出しにしまってしまいました。
この曲をもう一度やり直したきっかけはイタリア留学の時でした。アクートがあまり得意でなかった私に、先生はこの曲をさらってくるようにとおっしゃいました。レッスンで初めて歌った時、まったく歌えない。この曲の難しさにその時初めて気が付きました。テノールにとってHi Cというのは間違いなく難敵です。大体の曲が最後の見せ場でHi Cが盛り込まれています。先生はHi Cが難なく出せれば後は怖いものなし、とこの曲を通じて私に教えてくださいました。それからレッスンはひたすらアクートの練習でした。不思議とこの曲を歌えるようになっていた時にはHi Cが怖くなくなっていました。私にとってこの曲はアクートを克服できた「鍛練の一曲」になりました。
それからというもの、私は今でも毎日この曲を歌っています。調子の悪い時も良い時も必ず歌います。一曲通して歌えない時、アクートがきまらない時、そんな時はどこかが崩れています。フォームで歌うことを徹底して訓練してきた私は、あまり調子には左右されません。歌えないということは調子ではなくフォームが崩れている証拠です。その原因をこの曲は教えてくれます。原因を調整してフォームを正して、はじめて歌う準備ができたことになります。つまりこの曲は私にとってのバロメーター、「調整の一曲」となりました。
これまで毎日歌っているこの曲は、自然と自信を持って歌えるようになりました。今まで挑戦してきたコンクールでは必ず歌ってきました。おそらく今後もそうでしょう。良い結果が出たコンクールではこの歌が味方をしてくれます。逆に悔しい結果の時、この曲は私を突き放し、とてつもなく難しく感じます。それほどこの曲には力があるのだと思います。今の私にとってこの曲は「勝負の一曲」です。
恥ずかしいことに何百回と歌ってきたこの曲ですが、一度も満足に歌えたことがありません。一つできればまた新たに問題が見えてくる、きっと一生突き詰めていくでしょう。多様な顔を持つこの一曲は、私に沢山のことを教えてくれます。私の歌手人生と切っても切れない良きパートナーです。
今後の私の目標はオペラ「ファウスト」の中で、ファウスト役でこの曲を歌うことです。その時、会心の歌が歌えるように日々努力です。この曲が将来、私の「人生の一曲」になるように・・・。