エッセイ 原田勇雅さん②

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2018年8月号-9月号より日本声楽アカデミー会員のバリトン歌手、原田勇雅さんのエッセイを掲載いたします。

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「いつでもスタートラインに立てるように」
原田勇雅 バリトン
陸上競技をやっていた頃、練習のときに顧問の先生からよく言われた言葉です。いつでも試合を想定して、日々のトレーニングに臨む。ウォーミングアップの体操から始まり、ジョッグ(軽く走る)で校庭を3周、リズムを感じながら小さなハードルを越えるリズム走、80メートルの距離を、仲間たちと気持ち良い風を感じながら走る快調走を8本、ストレッチをしてから、8割位の速度で200メートル走を2本、水分補給をして、少し呼吸を整えたら、いよいよスタートダッシュの練習と本命の100メートル全力走。高校まで陸上部員だった私は、毎日このような練習をし、充実感を感じていました。
 選手として大会に出ることが増え、少しずつ記録を伸ばし、「よしこれから!」というとき、転機が訪れました。練習中に右足が大きな肉離れを起こしてしまったのです。リハビリをしながら再起を図っていると、音楽の先生から、合唱部の練習に見学に来ないか?とお誘いを頂きました。運動部の自分にとって、文化部に見学に行く勇気がなかなか持てずにいたのですが、いざ見学に行ってみると、大きなカルチャーショックを受けました。歌うということが、これほどまでに全身で表現することだとは!入部を決め、歌にのめり込んでいきました。
 高校三年生になる頃、クラス分けの関係で文系か理系か悩みましたが、一念発起して第三の道、音楽大学に進学することを決め(つまり文系です)、谷中の門を叩きました。音楽のスタートラインに立ったとき、師匠から最初に頂いた言葉『今日からはいつでも歌えるように』。この言葉はいつも自分の心の中に響いています。どんな時でも自分のベストを尽くせるように、曲の精神を感じられるように。

 時は流れ、先週、イタリア・トスカーナ地方のモンテカティーニという街でオペラフェスティバルに参加しました。古代ローマ時代から続く温泉地と知られる当地は、ヴェルディを始めとするオペラ作曲家たちに愛され、プッチーニが滞在中に《ラ・ボエーム》の第三幕と第四幕を書いたことでも有名です。フェスティバル中に開催されたコンクールで、幸運にも本選で歌わせて頂くことになり、《ドン・カルロ》と《椿姫》の曲目を確認していると、オケ合わせの前に、指揮者のJan Latham-Koenigさんが歌手たちに一言、『皆さん、Cantate con calma(落ち着いて歌ってください)!今日は私たちにとって最終日ではありません、今からのリハーサルが今夜の音楽のLa linea di partenza(スタートライン)です。』
 この言葉を聞いたとき、これまでのことが繋がったような気がしました。各国から集まった歌手たちも技巧の優劣を競う競技者ではなく、一つの音楽会を共に創り上げるアーティストの表情に変わり、皆の意識がレガートにまとまって音楽のlinea(ライン)となったように思います。結果、本選会は聴衆の感動を誘う美しい音楽会となりました。帰り際、参加した皆と抱き合い感動を分かち合えたことは、審査結果以上に一生の財産となりました。
 これからも続く歌人生、今日もまたスタートラインに立てることに感謝して過ごしていきたいと思います。Grazie a tutti!