エッセイ 太田朋子さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。この note では「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は 2016 年 12 月号-2017 年 1 月号より日本声楽アカデミー会員のソプラノ歌手、太田朋子さんのエッセイを元に、加筆いただいた文を掲載いたします。


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「プーランクを追って」

太田朋子 ソプラノ

 フランス歌曲を専門としている私ですが、その中でフランシス・プーランクは特別な位置を占める作曲家です。ここ数年、この作曲家に的を絞ってのリサイタルを展開していますが、今日は彼の作品と出会った時から今までを思い返してみます。プーランクとの出会いが、これまでフランス歌曲を、そして声楽に関わる活動を続けてこられた原動力だからです。
 3歳から東京の児童合唱団で歌っていた私ですが、小学校入学後に習い始めたピアノは一人でいろいろな和音が出せて、小さい私の生活に大きな位置を占めました。当時の私の将来像は「ピアニスト」。ところが、和声の運びが面白い曲に興味を持っていた10歳の私は、ちょうどその頃連れて行ってもらった『メリー・ポピンズ』や『サウンド・オブ・ミュージック』の映画音楽に夢中になり、「耳コピー」で毎日弾き歌いをしながらアメリカの音の運びに魅了され、将来は「ミュージカル俳優になりたい」、と思い始めます。でも、勤め人で真面目一方の父にはさすがに「俳優になりたい」とは言い出せず、高校入学と同時に声楽を習わせて欲しいと言ったのです。当時のミュージカルはクラシックの発声で歌う作品が主流でしたので、ちゃんと基礎を勉強して高校卒業後は俳優の道に…と、密かに思い描いていたわけです。さて、いよいよ進路を決める時が来て、とうとう両親に「高校を卒業したらミュージカルができる劇団に入りたい。」と言ったところ、大騒ぎになりました。母が大慌てで私を連れて声楽の先生に相談に行ったところ、「まずは音楽大学を卒業しなさい、ミュージカルはその後でも遅くない。」と説得され、不承不承に先生の母校を受験することに。
 そんなモチベーションで通い始めた音大が面白いはずはなく、声楽のレッスンにも身が入らず、唯一の救いはソルフェージュの授業でもらう、フランスの不思議な和声進行の課題曲でした。自分でも、赤坂にあったビュッフェ・クランポンの楽譜売り場にフランスのソルフェージュ課題集を探しに行ったりしているうちに、私の中でパンチのあるアメリカの響きから、複雑で微妙なフランスの響きへの脱皮が始まっていたようです。それと同時に遅まきながらアコースティックな声の響きに目覚めた私は、声楽そのものも面白くはなっていくのですが、時間切れで卒業の日が来てしまいます。歌ってはいきたい、でも何を?オペラ…?ドイツリートや日本歌曲?…好きではあるけれどちょっと違う…。
 そんなおり、大学時代の仲間と小さなコンサートを企画したときのこと、フルートの友人がプーランクの『フルート・ソナタ』をプログラムに載せました。恥ずかしながら、その作曲家を知らなかった私ですが、「ここに!私が望む音・旋律・和声が全てある!」と直感したのです。そして、「この作曲家って、歌も書いているのかしら?」と、今思えば、この声楽曲の大家を前にしてなんとお粗末な知識しかなかったのかと赤面です。こうして、私の尽きることないプーランクを追う旅が始まりました。フランス語を勉強し、フランスに渡り、数年後には現地でプーランクのオペラ『人間の声』をロングランで歌う機会にも恵まれました。そして今、さまざまな機関でフランス歌曲の指導に当たっていますが、私の学生時代とは大違いで、みなさん当然のようにプーランクをレパートリーにしてくれます。中学生やアマチュアの合唱団さえもプーランクの合唱作品を取り上げている様子を見て、こうしてわが国でもプーランクが広く受け入れられていることを心から嬉しく思います。今年は感染症のために、多くのコンサートなどの活動が中止になりましたが、日々のトレーニングと、今だからこそゆっくりとできる調べ物もして、またプーランクを楽しめる時を、そして思い切り歌える日を待ちたいと思います。