エッセイ 藪内俊弥さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、
毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。
このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2018年4月号-5月号より
日本声楽アカデミー会員のバリトン歌手、藪内俊弥さんのエッセイを掲載いたします。

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「香り」

藪内 俊弥 バリトン

「君の歌ね、綺麗に歌えてるんだけど、香りがないね」

十数年前にザルツブルクでロマン派の巨匠と言われるピアニストの講習会を受けた時に言われた言葉。
初日。シューマンの詩人の恋の1曲目を歌った後である。  

「今日は歌わなくていいから、裏山を散歩しておいで」  
言われるままに外に出て、先生に言われた言葉を噛み締めながら歩いた。少しは自信のあった曲だけに、悔しさもあった。
そんな気持ちで黙々と歩いていると、ふと、鳥の声が聞こえた。顔を上げると、鮮やかな緑の森の中を歩いていた。なんて芳しい緑の匂いなんだろう!
道から逸れて、森の中を入って行った。自然と詩人の恋の1曲目を口ずさんでいた。
言葉で正確に答えを言えないが、「ああ、こういう事を先生は言いたかったんだな」と、自分の中で確信した…  
踏みしめる土の匂い、緑の葉の匂い。詩人ハイネは、ひょっとしたら森を歩き、愛する人を想いながらこの詩を書いたのかもしれない…  
それを読んだシューマンがこんな曲を書いたのか…  

歩きながら「何か」を掴んだ気になり、また講習会に臨んだ。先生の弾くピアノで、全曲を講習会中の本番でも歌わせて頂ける機会にも恵まれた。
20日間のレッスンの中で、詩人の恋、白鳥の歌と見て頂いた。巨匠のお宅は、ザルツブルク市街地から高速で1 時間半行った山の中だった。
綺麗な湖、森。毎日9時から17時までの生徒達のレッスン。夜に飲みに行くお店も無く、朝晩に1時間ずつウォーキングしたお陰で8キロ痩せて帰ってきた。
只々歌の事を考え、歌った20日間。厳しい先生だったが、 充実した、幸せな時間だった。

前奏が無く一緒に入る曲は、「俺を見るな、 同じ空間を共有していればピッタリ入れる」と仰られた。2人で曲を奏でるという、根本を教わった。
勝手に歌いたいように歌い、弾きたいように弾くのではなく、1曲目が始まり、終曲が終わるまでの全てを、
曲間の音の出ていない時間も共有しようとする巨匠の「気」、「本気」、「気魄」を感じた。真摯な音楽作り。
ついて行くのに必死だったが、全てが音楽で、2人で一緒に歌っていた。

十数年経った今、自分はあの頃からどのように自分の歌を積み重ねて来たのか。有り難い事にいくつもの本番を頂き、歌ってきた。
ザルツブルクから帰ってきてから常に考えているのは、「こんなもんでいいや」と思わない事。線引きしないで、可能性を追い続けたい。