エッセイ 谷川佳幸さん

日本声楽家協会が定期的に発行している会報には、毎回声楽家や講師の先生方よりオピニオンやエッセイをご寄稿いただいております。このnoteでは「エッセイ」と題しまして、以前いただいた寄稿文をご紹介します。
今回は2012年6月号-7月号より日本声楽アカデミー会員のテノール歌手、谷川佳幸さんのエッセイを掲載いたします。


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「風に押されて」
谷川佳幸 テノール

音楽大学に入学し、まだホルンを吹いていた頃、僕が親しむ音楽は主にドイツの器楽作品でした。初め教育専攻でしたので、ピアノと声楽のレッスンが毎週1回ずつありましたが、声楽の故嵯峨おさむ先生は僕に週2度レッスンしてくださり、ある日「買ったのだけど行けなくなったから」と、藤原歌劇団《ラ・ボエーム》公演のチケットをくださった。O.ガラベンダ氏の歌ったロドルフォを聞き、僕は声楽の道に進もうと決心しました。
その会場には、行けなくなったはずの嵯峨先生の姿も…。

 その数年後声楽専攻で行き詰っていた時、ある方から「蝶々夫人のゴロー役を探している」という話をいただいて歌いに行ったら、「君の声は脇役じゃないからダメだ」と、ルーマニアの歌劇場での講習会を紹介され、オルテニア州立クライオーヴァ歌劇場へ。そしてクライオーヴァ歌劇場の《セヴィリアの理髪師》アルマヴィーヴァ伯爵でオペラデビュー。初めてヨーロッパに行き、ウィーン国立歌劇場で最初に観たのが《セヴィリアの理髪師》、デビューはわずかその半年後でした。

 大学院浪人中のイタリア滞在で受講した国際声楽講習会では、O.ガラベンダ氏に教わることもできました。その後イタリアから帰り、なかば強引に友人に連れられて《ラ・ボエーム》のオーディションへ。当時はロッシーニばかり歌っていたし、ロドルフォなんてまだ歌えないよと思っていたので、本当に付いて行っただけなのに、運良く合格し、R.パルンボ氏指揮の《ラ・ボエーム》ロドルフォが僕の日本デビューになりました。

 いつも目標を持っているし、夢だってある。自分でしっかり歩いているつもりなのに、思い返してみると、多くの縁により、自分では想像もできないような風に押されて走っているようです。

 15年ほどイタリアオペラを中心に歌っていた僕に友人が「映画音楽などを中心にしたコンサートをやらないか」と持ちかけ、様子が分からないまま話は進み、このシリーズは少しずつ形を変えながらですが、年数回のライヴとしてもう6年目を迎えました。何度も歌ううちにそれらはレパートリーとなり、お客様から「アマポーラを歌って!」「やっぱり最後はビー・マイ・ラヴだね!」という声をいただくようになると、「自分は本当にオペラ歌手なのか?」と考えることも。

 生前嵯峨先生は「歌手になりたかったら、学校の先生にはなるな。経済的に安定する上、どんな仕事でも、やればやりがいがある。そしていつの間にか時間が過ぎていくのだ。」とおっしゃいました。何事にも真面目に取り組まれる先生らしいお言葉。残念ながら僕は我欲が深く、どんな環境にあっても歌うことを忘れられず、もがきまくっていますが、どんな仕事にもやりがいがある、という言葉は、どんな作品にも魅力があると自分なりに置き換えて、実感しています。

 吹奏楽に心踊った時、重厚なオーケストラ作品が好きだった時、ラグタイムに夢中だった時、モーツァルトにのめり込んだ時、イタリアオペラにしか興味が無かった時、日本人であることを強く意識した時。どれも嘘ではないし、今でもそれら全てを魅力的だと感じます(これだけ書いておきながら、30年間僕が一番好きな曲はシベリウスの交響詩「春の歌」)。
 多くの魅力的な分野の中から、何を自分の特別とするのか。特別なものとする必要などないのか。全く僕などには分かりません。しかし、西洋の作品に対して、バランス良い目で接することができるのは我々外国人のラッキーな点だと思っています。
 これから自分が、どんな風に押されて走るのだろう。それは実は自分の意志が引き寄せ吹かせた追い風なのか、流されているだけなのか…。
最後に結論が見えるまで、まだまだ楽しみながら走り続けます。皆さんのまわりには、どんな風が吹いていますか。