成田祐輔「投げられた石にとって、上っていくことが良いことでもなければ、落ちていくことが悪い事でもない」

「投げられた石にとって、上っていくことが良いことでもなければ、落ちていくことが悪い事でもない」

成田氏がスピーチで引用したこの文章。
この言葉はマルクスアウレリウスの自省録に登場する。

成田氏はこの言葉を用いて、いわゆる世間的な成功に執着することに対しての疑問を投げかける。
たとえばお金持ちになる事、いい会社にはいること、いい学校にはいること、SNSのフォロワー数を増やすこと。こういったことには確かに一定の価値があるのかもしれない。
これらを成し遂げた人物に人々は、尊敬や羨望、嫉妬の感情を抱く。「自分もああなりたい」と憧れを抱く人もいるだろう。

しかしよく考えれば、これらの、成功という大きく魅力的な目的は、執着を生み、適切でない立場や正しくない行為を正当化したり、それらを見て見ぬふりをしたり、という結果を誘発する。

正しい行いをしたいと思ったとき、大抵リスクを冒すことになる。それはもしかしたら、確定したリスク。やれば確実に自分が破産したり、地位を失ったり、もしかしたら死んでしまうようなものかもしれない。
まだ行われていない正しさの前には大抵、このような大きなリスクが立ちはだかっている。だからこそ正されていない面が大きいのだろう。

だとしたら僕たちにとって重要なのは、インフルエンサーや企業の社長、アイドルや東大生を見習うことよりも、
そういった成功に執着せず、正しい行いのために、自ら没落していける人物なのではないか、と。

たとえば渋沢栄一の孫、渋沢敬三。
戦後GHQによって財閥解体が命じられたが、GHQは

「渋沢財閥だけは解体しなくてもいい」

と言ったらしいが、渋沢敬三はそれを断った。
彼は日本を次のステージに進めるために、自ら席を譲り、
立ち退いたのだ。
その時の合言葉は「ニコ没」といって、
ニコニコと没落していこう、という意味らしい。
そうつまり、正しい事のために落ちていくことは
悪い事ではないのだ。
と。
成田氏は(僕の解釈込み)ザックリこのようなことを語っていた。

成田氏の言葉は非常に感動的で理知に富んでいると感じた。
しかし同時に、

「でも僕たちは投げられた石でも、渋沢敬三のような偉人でもない、
自分勝手で臆病なただの人間だ。」

と言いたくなった。
僕たちは石ではないので、主観があり、価値判断をする。僕たちは社会的な動物なので、社会的に認められることは基本いいことで、社会的に没落するのは悪いことだ。
だから明日からすぐに
「よし、ニコ没だ!成功や認められることより、正しさを優先するのだ!やったー。」
とはなれない。
そこで僕自身はこの
「投げられた石、、、(略)でもない。」
という言葉に対して
「価値観のお散歩」という価値を提案したい。
要するに、

「客観的には、昇っていくことが良くもないし、
落ちていくことが悪いことでもない。
でも自分的にはやっぱり昇りたい、落ちたくない」

これを認めたうえで、
「でももしかしたら、そういった主観的な価値観は思い込みの可能性がある。客観的にはすべてが同じ無意味、、、
なら、ちょっと落ちてみようかしら」

と、少しでも今の価値観を疑い、自分の外側の価値観へと散歩してみる。
そうしてもしかしたら、落ちていくことの価値に気が付くかもしれない。
客観的にしかなかった価値が、主観的な価値観とつながるのだ。

そうやって、「価値観のお散歩」をすることで、僕たちは自分が本当は何を求めているのか知ることができたり、もしかしたら成田氏のいう様に、正しさのために、ニコニコと没落していけるようになるかもしれない。


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