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【世界考察33】変わってることは良いことなのか

個性を出せ。突き抜けろ。出る杭になれ。人と違うことをやれ。云々。

言葉は何でもいいが、変わってることは良いことである、という風潮が一部にはある。私は全く思わない。普通である事以上に良いことはない。私は多分、一般的に見たら変わり者だと思われる範疇の人間であるが、変わっていることが良いことだとは全く思わない。

唯脳論的には、この世に真の変わり者がいるとしたら、それは誰にも理解できない存在である。何をしゃべってるかもよくわからない。もしかしたら口から声を出してすらいないかもしれない。脳内に直接語りかけてくるタイプかもしれない。地球のどこにも存在しない謎言語で語りかけてくる。いや、言語ですらないかもしれない。首を振る回数で何かを語りかけてくる可能性もある。こちらが何を語りかけても反応はない。ひたすら首振りを繰り返すだけ。コミュニケーションの取りようがない。

こんな存在がいたら完全に変わり者だが、現在の人間社会では社会的意味を持たない存在である。なぜなら誰にも理解不能だからだ。真に理解されないことを一生やる人間がいたとしたら、その人間はどういう価値判断を受けるか。首振り人間を想像すれば、語るまでもなくわかる。

真の変わり者は、通常、社会的に価値があることを実行できない。真の変わり者は、この世の価値基準を全く理解しない可能性が高い。全ての行動が等価の中で、ランダムに選んだことが、社会的価値を持つ可能性など、ゼロに等しい。価値があると判断されることを実行できる時点で、他人に理解されることをやっているのだから。変わり者ではないとも言える。

こんなものは変わり者の定義次第でどうとでも言えるわけだが、私の中で変わっているということは、他人に理解されないということである。他人に理解されている内は変わり者ではないと言いたい。

理解される人間の大小を持って変わり者と判別するかどうかは、何とも言い難いが、例えばビジネス的に成功することは、基本的に大多数の人に理解されることをやる必要があるわけで、これを真の変わり者が達成しうるのかどうかを考えると、無理である。

ちょっと他人とは視点が違うことを変わり者と呼ぶのだろうか。そう定義すれば、確かにビジネスで成功するのは変わり者だろう。しかし視点が違うと言っても、結局は他人に理解できる何かを生み出しているのであれば、やはりその人は理解され得る人なわけである。理解され得る人は、変わり者なのだろうか。

この記事も、言語の定義を巡っていくらでも議論ができそうなので、言語とは難しいものである。しかも結論がでない。

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