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【世界考察22】常識を疑え、という常識を疑え

当たり前を疑え。常識を疑え。そんな言葉が多い。当たり前とは何か。常識とは何か。疑うとは何か。当たり前を疑えは疑わなくていいのか。常識を疑えは疑わなくていいのか。あたり前を疑えを疑うのは疑うべきか。

常識を疑え。意識の高そうなビジネスシーンで聞く言葉だ。しかし彼らはビジネスを成功させることがいいことであるという常識は疑わない。金を稼ぐことがいいことであるという常識は疑わない。実はビジネスをするのは良くないことなのではないか、などと言い出す企業はない。金なんて稼いではいけないと言い出す企業もない。当たり前だ。ビジネスの目的は常識を疑うことではないからである。ビジネスの目的はビジネスを成功させることである。これは原理と言ってもいい。その内部にいる限り、原理にケチをつけることはできない。ビジネスの目的は間違ってもデカルトになることではない。ビジネスの場で常識を疑えと言われて本当に常識を疑ってはならない。そこで言われていることは、他社との違いを作れというだけの話である。実は自社のサービスは本質的に社会的価値がないのではないか、などと言い出してならない。高い能力に高い報酬が支払われることは、実は何の根拠もないのではないか、などと言い出してもならない。常識を疑ってはならない。

常識を疑え。サイエンスのシーンでも聞く言葉だろうか。サイエンスは比較的懐疑主義が機能する場所ではあるが、かといって全てを疑ってかかると生きてはいけない。当たり前だ。1秒後にも空気があるという常識を疑え、などと言い出すと何もできない。この辺りは次の書評で触れている。

常識、偏見、思い込み、固定概念、因習、しきたり。呼び方はなんでもいいが、私にとっては全て同じものである。人間はあらゆるシーンでそれらを使いこなして生きている。使いこなせなければ、社会的ではまともに生きてはいけない。

常識を疑え、という人は、本当に常識を疑って生きたことがあるのだろうか。私には到底可能だとは思えない。あらゆる可能性を毎秒想像しながら生きていくほど、人間の脳は高級ではないだろうし、効率的に意味もない。常識、偏見とは、可能性の低そうなことを切り捨てるツールでもある。効率的に生きてくツールだ。全ての常識を疑って生きている人は、この世で一番非効率的に生きる人である。あえて非効率的な人間になりたいだろうか。普通なりたくない。だからこの世には常識があるわけだ。極端な相対主義は現実に対する力を失わせる。

常識を疑え、という常識を疑え。


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