見出し画像

【世界考察8】学歴と知/学歴崇拝の起源

●学歴と知

世界考察では知の時代が終わる、知がオワコンになるという話を擦り続けているが、それまでは知の崇拝対象としての学歴が存在し続けることは間違いない。AOや推薦入試の増加など、大学受験は純粋に知を問うものではなくなりつつある(歓迎すべきことである)。しかし学歴が知を表しているという概念は、受験が知を問うものであることと無関係に、存在し続ける。

知の時代を超えても学歴が何らかの意味を持ち続ける可能性はある。それが何の意味かまではわからない。ブランド的価値だろうか。知ではなく単なる社会階級を表すものになるのかもしれない。先祖返りか。

●学歴崇拝の起源

個人にとっての学歴の意味は第1回で述べた。個人にとっては個人の世界しかないので、世界考察1で重要なことは全てが語られている。

学歴が重要かどうか。そんな問いは意味がない。一方、学歴は社会において、確かに存在する。これは事実である。なぜ存在するのか。

社会で学歴は崇拝されていると言っていいほどの影響力がある。あなたにとって重要かどうか、価値があるのか、意味があるのか、そういう話ではない。社会に存在していて崇拝されているという事実がある。それだけだ。

なぜここまで社会で学歴が崇拝されるのか。
今回は学歴崇拝の起源を考えてみたい。

まず現代は「知の時代」であり(いつ終わるやもしれない時代)、知的に優れていることが日常でも仕事でも大きな価値(価値とは何か)を持っている。その「知」を表すものとして、知を問う試験を課している学歴が物差しになっていたので、知の象徴として学歴が崇拝されていたわけだ。

ここで一つ疑問なのは、なぜ学歴が物差しになったのかということである。知的能力を測る方法として別の手段があれば特段学歴にこだわる必要もない。本当に大学受験が知的能力を問えているのかも、明確な根拠はない。

学歴にこだわる必要がないのに学歴が物差しになったのは、総体として知的能力を学歴以外で測れなかったからである。いや、より正確に言えば人間が他人の知的能力を学歴以外では評価できないと「思っている」からである。

測れるか測れないか、それが正しいかどうか間違っているかどうかが重要なわけではない。測れないと「思っている」ことが全てだ。

例えば私は他人の知的能力は、10分も話せば、学歴を見なくても判断できると「思っている」。その判断は学歴を見るより正しいと「思っている」。判断の目安は次のとおりだ。

①人の話をきちんと聞いている
②的外れな返答がない
③論理におかしなところがない
④教養、語彙力が備わっている
⑤メタ視点が存在する

一応挙げてみたが、実はこんな目安はどうでもいい。そもそも判断が真であるかどうかは重要ではない。根拠だって何でもいい。根拠が怪しかろうが、判断が間違っていようが、学歴以外の判断の軸が存在し、判断できると「思っている」ことが重要なのだ。なぜなら判断できると「思って」さえいれば、他人の知的能力を判断するのに学歴は不要だからである。

重ねて言うが、根拠が出鱈目でも、学歴以外で判断できると思っているだけでいい。ただそれだけで学歴という軸は消える。現に私の他人に対する知的能力の判断基準に学歴は関わっていない。知的に優れていることが良いことだとすら思っていないが、私が知的能力を判断することに関しては、学歴は意味を持たない。自分の中に学歴以外の判断基準が存在するからだ。

企業で統計的な効率を追い求めた結果、学歴という物差しが残ったのだと主張する向きもありそうだが、学歴という物差しは企業以外でも普段の日常生活にまで存在する。人間は知り合いの学歴から芸能人の学歴まで気になる。

企業的効率性など普段の人間関係では不要なのに、ここでも学歴が顔を表す。知的能力を測るために学歴を無意識に、意識的に、企業でも、日常でも活用している。日常がそうだったから企業もそうなったのか。企業がそうだから日常もそうなったのか。鶏が先か卵が先か。みんな無意識的に統計に基づいて生きているのか。偏見とは統計でもある。

逆に考えると、大概の人間にとっては、10分話すよりも学歴を見た方が知的能力を測れると「思っている」から、学歴が崇拝されるわけだ。なぜそうなるのか想像してみると、人間にとって判断というのはかなり労力のいる作業だからではないか

養老孟司氏(しょっちゅう出てくる)は、よく「その方が考えなくてすむでしょ」と口癖のように言っている(気がする)。これはいい意味で言っているわけではない。思考放棄の象徴として言っている言葉だ。

会話してその都度自分の判断に照らし合わせるのは、普段から判断軸を明確にしておく必要があるし、リアルタイムで判断を積み重ねなければならないので、なかなか労力がいる。統計(偏見)でパッケージングしておけば個別の事象に関して何も考えずにすむ。楽だ。

身長170cm未満は人権がないと言って炎上した方がおられたが、あれも「その方が考えなくてすむでしょ」という統計的な数値基準である。パッと見で170cm未満かどうかわかるはずもない(そういう訓練をしているなら別だが)。しかし数値を設定しておけばその都度判断しなくて済む。数値を設定すると必要以上に数値に縛られるという意味で、学歴に近い。身長と学歴が恋人選びの判断材料として使われるのは、考えなくてすむという概念と無縁ではない。

私が知的能力を測るときに学歴を使わないのは、私にとって10分会話の判断に負担がないからなのかもしれない。鍛えられたからなのか、生まれつき負担を感じない処理能力があったのか。判断できるまでの過程があったはずだが、今となっては思いだせない。

結論として、学歴崇拝は評価する負担を減らしに減らした結果生じているものだと言える。「その方が考えなくてすむでしょ」の産物だ。そしてみんな大好き「統計」の産物でもある。

判断を苦にしない人にとって、知的能力を測るのに学歴は大した意味を持たない。重ねて重ねて重ねていうが、その判断が正しいかどうかが重要ではない。学歴以外の評価基準があり、その評価基準が正しいと「思い込んで」いたら、学歴は効力を失う。

私の判断と学歴による判断に乖離があるのか。実際、それほど乖離はない。自己判断も学歴判断も、大差はない。じゃあ学歴でいいじゃんとなりそうだが、私はもっと適切な判断方法があると「思って」おり、負担もなく、それほどと言いつつも乖離はあるので、判断基準に学歴を採用する理由がない。

もちろん、判断基準に学歴を採用するのも、それは自由である。人は自由であるしかないので、判断基準も各自の自由であるしかない。

●余談 努力が報われる物語の中毒性

努力が報われる物語は中毒性がある。大学受験講師である私は教え子からそれを学んだ。3年間、二人三脚で歩んだ教え子が難関医学部に受かった喜びは今でも忘れられない。本人もそうだろう。みんなで喜びあったことを鮮明に覚えている。何度でも味わいたいほど素晴らしい体験だった。しかし各地で発生しているこの美しい努力の物語が、学歴崇拝に一役買っている節もある。

物語に過剰な意味を見出すのだ。

素晴らしい努力に人は過剰な意味を見出す。私も例外ではない。その美しさに全人格を見出すことすらある。努力とは何か。努力するとは努力することだ。トートロジーを語ってどうするのか。それ以上の意味はないと言いたい。それ以下の意味もないと言いたい。そして人生は大学受験で終わりではない。止まってはいけない。

学歴とは、18歳くらいまでに、大学受験という特殊なステージにおいて、その大学に合格する努力をした。それだけを保証する。それは素晴らしい。では合格しなかった人は努力しなかったのか? そうではない。試験は本番の運も大きく絡む。「統計」ではなく、個別にものを考えないと、何かを見落とすのだ。

見落とすのに、なぜ人は統計(偏見)に頼るのか。
そうしないとしんどいからである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?