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【世界考察45】学歴話はなぜ変わり映えしないのか

久しぶりの世界考察は学歴話である、と見せかけて、中身は学歴とはあまり関係がない。

世界考察で学歴話をしすぎたせいが、noteの新着記事でやたらと学歴の話が目に入る。何か新しい話があるのかと思い、いろいろ見てみるのだが、毎度定番の話が多い。就職に有利、努力の指標になる、学歴がいらない世界もある、云々。何回も擦られ続けている話がほとんどだ。とはいえ、私もその手の話を見すぎたきらいがあるので、バイアスはかかっている。

100回言ったように(言ってない)、学歴自体はもはやどうでも良すぎるのだが、なぜ同じ話が延々と擦られ続けるのか、その点に興味がある。

なぜ定番の記事がずっと現れ続けるのか。それは統計的に、最大公約数的に、ツッコミどころの少ない、バランスの取れた、主観を入れない、多くの人に読まれる記事を書くからである。

みんな大好きな「統計」を使えば、同じような話が出てくるのは当たりまえだ。統計にも恣意性は含まれるが、記事が量産されれば、同じ結論、同じ文面。同じ意味の文章は、統計(データでも文章で)を使う限り、避けられない。

ではなぜ「統計」を使うのか。まず考えられるのは、多くの人に読ませるため、つまり多くの人の印象を損ねないためだろう。さらに統計を使えば、主観的に語らずに済む。つまりツッコミどころが減るわけだ。メリットデメリットも併記して作成すれば、さらにツッコミどころは減る。最終的にはまるで自分の意見が入らない、見事にバランスの取れた、最大公約数的な記事が出来上がり、多くの人に読まれる、という寸法になるのだろう。

この手の主観性を排除した、魂不在の記事は、果たして面白いのだろうか。統計的思考がそれなりに使える人であれば、統計的な結論は、何度も人に教えてもらうほどの話ではない。つまり、読んでも思考を変える、行動を変える、自分を変えるような出来事は、起こり得ないということだ。人を動かすのは魂に他ならない。

私は常に問いたいのは、「あなたはどう思うんですか?」という主観性である。リクルートでは「で、お前はどうしたいの?」と問われるらしいが、これは「で、お前は(会社の利益のために)どうしたい(どう行動すればこの難題を解決できる)の?」という意味なので、主観性は問われていない。ビジネスとはそういうもののはずだ。私の話は全く逆で、むしろ主観性しか問うていない。個人の本心と統計は重ならないはずである。重なる人がいるとすれば、もはやその人は統計の奴隷だ。統計とは魂なのか。

私の本心は過去に開示している。

あなたの人生にとって学歴が重要なのか、あなたの大学はあなたに取ってどんな意味を持つのか、それだけが重要なことである。客観的価値など、どうでもい。そして学歴どころか、頭がいいことがそんなにいいことなのか、そこから疑ってほしいというのが、究極的なところである。学歴話を書けるような、ある程度ボリュームのある文章を書けるような層は、知という人間のひとつの能力を、過剰に評価するバイアスがあるはずだ。

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