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nokto etapo 02

   ラインボ・スレブラ

 裏手から扉を開いたリーエタットは、首を動かさないまま瞳だけで劇場内を見渡す。客入りは上々。所狭しと並んだテーブルには、老若男女を問わず酒と音楽を待っている人間が座る。後方に陣取った老人、友人同士だろう若い女性たちは前方隅の席、酒を煽りながら苛立つ男は中央に居座り、舞台ではなく客を見に来た派手な少女は全体が見られる斜め奥の席。そのテーブルと椅子と人間と酒瓶と紫煙と……ようするに、あらゆるものでごった返したフロアを掻き分けるようにリーエタットたちは進む。
 今日の楽師はこいつらか。そんな容赦も遠慮もない視線に、特別な動揺はない。高い声で囁き合う女の子たちにニッと笑うと、挑発するように眉を上げられた。
 一段高くなった舞台に立ち、メンバーと顔を合わせる。昼間に一度ここに立った時、四人で粗方の決めごとはした。ギターを弾くリーエタット、そしてリコーダーのスモックは比較的中央、その脇をベースのヤンとバウロンのデウスが固める。
 最初の位置に体が馴染むと、四人の視線が合わさる。複雑な仕掛けのように、それぞれの腕と指が、同じ速さで始まりの音を弾いた。

 ダンッ

 前奏もへったくれもない、いきなり主旋律が始まる。しかも、どの楽器もクライマックスかのように激しくメロディーを奏でる。
 みな、目を丸くする。しかし、一つのフレーズが終わり繰り返されると、それが自分たちにも馴染み深い曲だとわかったようだ。
 『騎士キーファーの沈黙』。実直で朴訥なキーファーの悲恋を歌ったスノーゼル地方の定番曲だ。素朴で聴きやすいメロディーだが、その中に虚しさや寂しさが混じっている。
 走るようなバウロンのリズムに、跳ねまわるベースライン、そこに乗ったリコーダーとギターの音が歪み、その切なさを表した。
 リーエタットの指がギターの弦を押し上げる。ただでさえ悲しい旋律は、それによって判然としない胸の痞えを生んだ。
 曲とともに伝わる話はこうだ。キーファーは聖人のように高潔な騎士だったが、卑しい身分の女性に恋をした。しかも、子持ちの寡婦だ。彼は、自分の想いを秘めた。そして、自らの責務のように貧しい者たちに施しを与えた。何年も経ち、キーファーが病死した後、自分の想いを綴った手紙と金貨が発見された。そんな話を曲にしたのが、これらしい。
 メインのメロディーが途切れ、中盤のゆるやかなリズムが小さな暇を与える。
 馬鹿じゃねえの。と、リーエタットは思う。あまりにも自分を滅するキーファーの気持ちがちっともわからない。言わなきゃわかんねえじゃん。まあ、直接言うじゃなくても何で攻めねえの。っつか、亭主死んでるし妾にしてもいいんじゃねえの。寡婦側の想いを伝えるものは残っていないが、身分の高い奴に見初められて悪い気はしないんじゃねえの。ゴーサインが出ているのに行かないのは、彼にとって馬鹿らしい。それが歴史上の人物なら尚更だ。
 再び、メインのメロディーを繰り返す。秩序だった和音と展開の中に、歪んだ音が散らばり悲しげに響く。
 思うに。と、リーエタットはまた左手の指で弦を動かしながら、たわんだ音を弾く。
 思うに、キーファーは何か人に言えないような背徳があったのではないか。物語として残る騎士の描写も、不思議なくらいに裏がないのだ。あの人に想いを伝えようか。いやいや、それは自分の傲慢だ。彼女は私を受け入れないだろう。生娘ですかってくらいにふわふわした表現しかない。いや、思い悩むのはいいよ、別に。しかし、それにしたって感情移入できない。
 この手の物語には裏話というのがつきもので、本当はこうなんですよ、という下世話なエピソードが添えられているものだ。それがない。怖いくらいに清廉潔白な騎士の悲恋でしかない。無理だろう。それ、オレは無理だわ。
 そんなわけで、彼は編曲した。もっと人間的で、感情をむきだしにして、そこに狂うくらいの煩悶がほしい。制御できないくらい気持ちが暴れて、それでも言い出せない事情があったのではないか。身分を越えても愛した人にさえ告白できない秘密が。それこそが『沈黙』の原因だ。
 メインメロディーは変わらぬまま、クライマックスに向けて音の重なりは複雑になっていく。メロディーは高低差を無視して飛んで、基本のフレーズに次々と新たな音が加わる。
 酒を飲む観客と、舞台上と、空気が熱くなっていく。
 最後は始まりと同じ。全員の波が重なって、大きな衝撃波のような音がした。

 舞台全体が見渡せる後方中央に陣取っていた老人は、怒りに震える手を隠すことをしなかった。
 何 だ こ れ は !
 『騎士キーファーの沈黙』が台無しじゃないか! 最近の若者は沈黙の意味も知らないのか。独りよがりの恋情を、自室でぐるぐる歩きながら大声で喚いているようなものだ。何でも口に出して言わなきゃ気が済まない幼稚な少年のようではないか! キーファーがそんな女々しい男のはずがない!
 曲が終わり、大袈裟に腕を回してお辞儀をするチャラついた青年に、詰め寄って小一時間は説教を垂れたいところだ。ぐっと震えた手を握りしめ、自らをキーファーに重ねて老人は口を噤む。
 何でも口に出して放りだせばいいものではない。そう、騎士キーファーもそうだったはずだ。男は黙って態度で示す。あの寂しさは背中の哀愁なんだ。
 だけど、やっぱりあの若造には腹が立つ! 老人はテーブルに置かれたグラスを飲み干した。くらりと眩暈がする。また婆さんに怒られる幻影を見た。

 「アンタ、どれ?」
「あたし? あたしは太鼓の人かな。いい体してるし」
 丸いテーブルを前に並んで座る娘たちは、喧騒に紛れるような声量で囁き合う。女がこんなところに来るな、と無言で告げる誰かの視線をねめつけて、舞台に立つ青年たちに瞳を戻す。
 なかなか面白い舞台だった。率直に楽しかった。とても。あの聴き飽きた曲が全く違う顔を見せた。
 だって、そんなつまんない男に好かれたって面白くない。好きだとも愛してるとも囁いてくれないのに、わかれよって何様だよ。偉い人が貧民に施しをくれたって、それを好意だと思う人間はいないって。自分だけにくれてないしさ。完全に自己満足。
 それよりも、自分がこれだけその人を苦悶に陥れてんだって方が気持ちいい。まあ、何年も経った後(しかも死んでから)手紙が見つかるとか、実際あったらちょっと気持ち悪いけど。その辺は恋物語ってことで。
 毎日、工場のまかない作り。浮気の埋め合わせに贈るプレゼントをボスが考えている間に、こっちは蒸し風呂みたいな台所で食事の準備。ここにいる時くらい、楽しい気分に従順になったっていいじゃないのさ。
「わたしはギターの人だなあ。可愛いし」
 また目が合ったので、ひらひらと手を振って誘ってみる。ここの暗い明かりなら、水仕事でガサガサの手も少しは綺麗に見えるでしょう?

 次の出番を前に、裏手への扉の傍らで聴いていたアリアンは、むずむずとフィドルを持つ指を動かす。
 何ていうか……まとまりがない。
 リーエタットたちの演奏に対する最初の感想だ。自分が音楽を習った時に教わった基本の和音や運びとは大分違う。知らないのか、あえて外しているのか、それは定かではないが、中央で楽器を掻き鳴らす青年と同じように、様々な装飾品がついている印象だ。煌びやかに映る飾りは、果たして必要なものなのだろうか。
 それでも、それでも劇場内の温度が上がっていることはわかる。受け入れた者も跳ねのけた者も、全ての情動を束ねて昇華してしまう勢いの前のめった音たち。それは、とても輝いている。そこに彼ら四人の生命力が満ちている。
 演奏を終えた若者たちが裏手へ引き上げる。アリアンは、
「お疲れ様」
 とだけ声を掛けた。
「次よろしく」
 先頭にいたリコーダーのスモックは、高揚した気分のままハイタッチをしようとしたが、彼女は両手にフィドルと弦を持っていたので、その手のひらは勢いをなくし戸惑う。
「弦とする?」
 アリアンがそう言って持ち上げると、彼は小さく笑って弦を握る手に拳を当てた。おお、なるほど、と後ろのデウスとヤンもそれに続き、最後のリーエタットも、
「楽しみにしてる」
 コツンと挨拶をする。
 入れ替わりにフィーロとメルキロが扉から出てきた。彼らもすれ違いざま、同じような挨拶をしたらしい。
 ――ああ、これなんだわ。
 自分が求めていたものは、やはりここにあった。そう思うと、妙に頭が沸騰する。これから演奏だ。どこかで冷静になりたいのに、指は勝手にメロディーを奏でるように動く。
「行こう」
 フィーロの声は少し震えていた。きっと緊張しているのだろう。彼女は数年前の自分を思い出す。初めて酒場で演奏した時のこと。受け入れてくれるだろうか。自分よりも遥かに年上の客を前に、対の瞳が何十もこちらを見ることが怖かった。
 アリアンが握った手を掲げる。フィーロは、うん、と自分の拳をぶつけた。ぬっと背後から大きな手が伸びてくる。メルキロが不敵な顔をしている。
 そう、たとえ今宵限りであったとしても、今はこの手に誓いを交わす仲間だ。

(続)

【2013/08/18】

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