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nokto etapo 03

   一夜の集い

 舞台に上がると、フィーロはマダム・ルイーゼに披露した時のように椅子に座った。リュートの弦を確かめる。
 舞台後方に置かれたピアノの鍵盤に、メルキロは手を添える。向きを変えて、彼の声が響きやすいようにした。顔も見やすい。
 アリアンは調律をしながら、目を閉じて集中していた。滑らかな指の動き。
 三人の音が止む。

 トンタンタララポン

 リュートから曲は始まる。それにピアノの雨粒のような音が重なる。フィドルの低音がその屋根から落ちる雨だれを受け止めると、ぐいと雨雲の上まで一気に昇る。
「遥か 遥か 遠く 遥か……」
 メルキロの声が天空を吹く風のように聞こえた。リュートのメロディーを指で弾きながら、フィーロは心を持ち直す。あの青年の声はのびやかで華美だが、それをしっかりと抑えている。物語る詩人のように。悠久の伝説を再現するように。

「女神の歌声が 世界を作ったのだ
 御神から授かった天の力は
 全ての人を救い 癒し 清める」

 そこに響き渡るは、ピアノ弾きの玲瓏な歌声。だが、フィーロの耳の奥に、別の声が重なる。男にしては細い、しかし根ざした木のように安定した声。朱のキタラを爪弾き、村人たちの中央で女神の歌をうたう。

「崩れる大地を憂いた女神は 自らを楔に大陸を繋ぎとめた
 清純な想いを人々の心に遺し その灯火は消えることなく」

 もう明確に思い出すことも困難な旅の楽師が、崩れ去ったレリーフを修復するように言葉で伝える。遥か、遥か、遠く、遥か。そんなにも長い年月の昔にあった、奇跡のような人の物語を。
 リュートを『ばあちゃん』に習っていたフィーロは、旅の楽師が一体どんな演奏をするのかと見に行った。自分も含めて、皆その光景に釘付けだった。もしかしたら、楽師など見ていなかったのかもしれない。その音と声が映し出す、儚い女神を見ていたのだろうか。
 指は勝手に細い弦を鳴らしていた。呼吸が自然と浅くなる。心臓の音が鳴りを潜めた。思い出したからだろう、瞳が変貌する。色が、様々な色が視界に散らばる。ペンキが飛び散ったみたいだ。その奥で自分のものではない波が、鼓動が、いくつもいくつも振動している。

 村を訪れた楽師の曲を聴いた後、両目が焼けるように痛くなった。鼓動がうるさいくらいに耳元で鳴り続け、隣にいた幼なじみは成す術もなく困惑するばかり。しばらくして痛みが引き、大丈夫だと告げるために顔を上げれば、そこに青い色が映った。その中心で脈打つ波は歪で、速く拍を打つ。
「フィーロ?」
 その青から呼ばれ、瞬きをした。次に現れたのは幼なじみの顔だった。
 ――『これ』は、一体何なのか。
 その思いだけではない。それだけではないが、この身に起きた不可解な現象を解決する医師や呪術師はいなく。少年の旅が始まった。

「貴女のうたを歌おう その光が繋いだ未来を
 忘却さえ涙を啜る 遥かな約束の道標」

 痛ましい声と、泣きの旋律。アリアンのフィドルが、この歌の作者の悲嘆と決意を表している。
 二人の音に、フィーロはハッとなった。そこに重なるリュートの調べ。詩人の叫びとは異なる音。寄り添うように、それとも、構わないように? リュートの珠のような音が無遠慮に歴史の持つ郷愁で、その曲を彩る。

 遥か 遥か 遠く 遥か……。

 最初のフレーズをフィドルが奏でる。書物に記された歴史も、詩人の歌った伝説も、まるで砂塵になって吹き飛ばされていくように。ゆっくりと、ゆっくりと、一つ一つ音が消えていく。声も、フィドルも、ピアノも。始まりとは逆の順番に退場し、最後にリュートだけが残される。彼らの思いなど知らないかのように、愚かで退屈でつつましい日常が繰り返される。
 最後の二音を弾き、フィーロは瞳を閉じた。次に瞳を開く時には、いつもの光景が見える。そう念じると、心臓がうるさく聞こえる。指先が震えた。自分の鼓動が戻ってきた。それが、堪らなく嬉しい。

 簡単な礼をすると、三人はステージを下りる。酔っ払った客の歓声、拍手、それらが疲れを癒してくれる。
「フィーロ、疲れたかい?」
 裏手へ引き上げる最中、メルキロが怪訝そうな顔で少年の様子を窺う。それは、緊張から解放された者への労いではなく、もっと大きな心配だった。
 口で息をしないと間に合わないくらい、呼吸が荒い。瞼は上も下も不規則に痙攣し、どんなにフィーロが微笑しても痛ましいものとして映った。リュートを持つ手は小刻みに震え、それなのに顔は蒼くなっている。極度の緊張や演奏での消耗に、疲労困憊する楽師も多いが、それにしても異質だ。今まで見てきたものとは、違う。
 共演した二人もそれを感じ取ったのだろう、舞台が終わった爽快感は、小さな不安に塗り潰されてしまう。
「大丈夫、慣れてないからだよ」
 嘘は吐いていない。そう、慣れていないのだ。
「やーっと終わった。楽しかった」
 喜びを噛みしめるように朗らかに言うと、アリアンもメルキロも小さく笑う。
「少し楽屋で休んでたら?」
 アリアンが扉を開いた時だった。客席の中から、一人の少年が近付いてくる。フィーロと同年代か少し上だろうか。スッと差し出された手は握手ではなく、小さな紙が握られていた。それは、まっすぐフィーロに向かっている。
 迷っているリュート楽師に、客の少年はぐいっとその紙切れを押しつける。反射的にフィーロがそれを受け取ると、渡し主はすぐに踵を返して行ってしまった。
「あ」
 ありがとう? 一体何なのだろう、と思いながら、手の中の折られた紙切れを見つめる。
「おひねりかもよ?」
 アリアンは茶化すようにフィーロの髪を撫でた。
「ラブレターだったりして?」
 メルキロのからかう声が、固まった頭を通過していく。
 楽屋に引き上げたフィーロは、リーエタットたちとの挨拶もそこそこに、その紙切れを開いた。四つ折りにされた紙には、コインも愛の告白もない。
『それは、君の命を削るよ』
 黒色の瞳を見開く。妙に鼓動が大きく鳴った。振り返って、バタバタと劇場内に戻って、先程の少年を問い質したかった。しかし、体が強張り、その文字を見つめることしかできない。
 何を言っているか、彼は伝わると思ったのだろう。だから『それ』なんて言う。他の者が万が一見たとしても、わからない表現を使う。
 痙攣する瞼に触れる。心臓が胸の奥で一定のビートを刻む。こうして見えるのは、正しい世界。正しい? その表現に違和感はあるものの、今この瞳が映し出す世界こそが、今まで生きてきた現実。
 何故、こんな瞳になったのか。朱塗りのキタラ、楽師の歌、そして発現。『古の女神のうた』、その日の夢に出てきた見知らぬ少女。自分を呼ぶように何かが手招く。わけがわからない糸が……弦が、これを辿れと宙に張られている。見えないそれらを弾くように、この旅は始まった。
 それでも。
 ――それでも。

(続)

【2013/08/18】

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