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nokto etapo 01

 テヤルト・レドの主人であるマダム・ルイーゼは、カウンターの奥からその少年を見やった。
 金茶色の短い髪、そして編んだベストや装飾品から判断するに、北のウアナティール王国の出だろう。未発達な背丈や体格、そして幼く生命力にあふれた顔は、成人もしていない年頃。毎日、様々な客を見てきたルイーゼは、己の目に疑いを持たない。
「で? ぼうや」
「フィーロです」
「そう。で、フィーロ。うちの舞台に立ちたいって?」
 はい、と口で言うよりも速く、彼は首を縦に振る。そこに物怖じや遠慮はない。だからと言って、子どもの傲慢とも違う。その黒い瞳を見つめながら、ルイーゼは棚から飲みかけのワインボトルを取り出す。
 不思議なぼうやだ。その目の奥に威圧感も不安も見えてこない。泥が完全に沈殿し、表面にはうすく灰色の水が静かに揺れている。そんな双眸だ。女将は内心で、口の端を持ち上げた。いいじゃないか、奏者はそれくらいじゃないと。そう胸に小さな言葉が灯る。
「今まで舞台に立ったことがないのに?」
 コルクを抜いた瓶の口から、血のような赤いワインが零れ、グラスに落ちる。半ばまで注いで目玉だけを正面に向けると、先程の少年の黒い瞳と視線が交わった。批判するようなルイーゼの言葉に、少年フィーロはわずかに目を丸くする。そして、口の端を無理に下げたような、戸惑いとも自嘲とも違う表情で、後ろ頭を掻いた。
「これしか思い浮かばなかったんで」
 ふっとマダム・ルイーゼは大きく息を漏らす。テヤルト・レドのあるアルテブルクで、未成年が金を稼ぐ方法は他にもある。特に、汚いものを探せば、いくらでも。よほど平和な田舎で育ったんだね、と女将は朴訥なぼうやを眺め、高らかに笑った。
「まあ、いいさ。わざわざ『立ちんぼ』になることもない。
 けど、こっちだって商売さね。その値があるかは見せてもらうよ」
 ルイーゼが顎でステージを示した。フィーロも同じように顔を向ける。
 丸いテーブルと椅子が散らばる大きなフロアの奥。一段高くなった舞台は横に長いばかりではなく、中央がせり出て半月の形をしている。そこで演奏してみろ、と女将の視線は言っている。
 フィーロは背負った袋からリュートを取り出すと、手近な丸椅子を片手に舞台へ上がった。高い場所から見下ろす営業前の劇場は、ひどくうらぶれたものに映る。テヤルト・レドがこの都市で一、二を争う大きさを誇っていると知っていても、そこに夜の華やかな光はない。
 丸椅子に座り、少年は弦の張りを調節する。生まれた村よりも幾分か乾いたアルテブルクの気候で、表面の木の感触は硬い。
 掃除をする従業員たちの中で、ルイーゼだけがじっとフィーロを見つめていた。手にしたグラスの赤い酒が、壁の明かりを反射する。
 フィーロは静かに呼吸を整えた。まだ薄い胸板がわずかに上下する。だが、それは緊張をほぐすためのものとは違うように、マダムには見えた。呼気も吸気も、まるで息をしていないように存在を消す。体内を振動させる脈拍も、どこかへと消えうせる。
 プォン
 右の指が弾いた一音が始まりの合図だった。親指が複数の弦を揺らすと、音階を忙しなく上下するメロディーが休む間もなく続く。古びた雑巾で床を拭いていた従業員は、ふと顔を上げる。
 ――知らない曲だね。
 マダム・ルイーゼは、音楽への意識を邪魔しない範囲でそんなことを思った。曲の展開や雰囲気でウアナティールのものなのは明白。だが、王国から流れてきた楽師に、この曲を弾いた者はいない。ステップを踏むようなメロディー。跳ねるように進んで、同じ速さで戻って、一つ休んで、くるりと回って……。フィーロの特徴を踏まえると、おおよその想像はつく。
 まあ、それはいいとして。女将の目と耳は、少年をしっかりと捉えた。一つ一つの音がはっきりとした響き、和音は少し均一すぎるけれど、まあ、まとまっている方か。踊りにしては弾き方が大人しすぎるのがもったいない。賑やかに手を取り合って腕を組む『みんな』はいないのだから。
 フレーズの終わりにきたところで、フィーロは伏せていた瞳をルイーゼに向ける。
「いいよ」
 彼女の合図に、少年の指も止まった。
「何て曲だい?」
「村祭りの、娘の踊りです」
「どこの出?」
「フェートの村」
 知らないわー。感情の起伏がないマダムの瞳は、暗にそう言っている。当然か、とフィーロはリュートのネックを握りながら思う。この都市へ来る途中も、この話題で芳しい結果を得られた試しがない。
「わかった(グート)、ぼうや、今夜の舞台に立ちな」
 少年の表情が明るくなる直前、女将は左手を前に掲げる。
「ただし」
 右手に持っていたグラスをカウンターに置き、彼女は足音を響かせて裏手へと続く扉を開く。
「アリアン! ちょいと来ておくれ」
 声を張り上げると、ルイーゼは元の場所へ戻り、またワインを飲み始める。
 女将の後を追うように、先程の扉が開かれ、一人の女性が顔を出した。年上だ、とフィーロは反射的に感じる。それでも、子どもっぽい瑞々しさを残した顔立ちは、二十の手前ほどだろうか。茶色の髪を丸くまとめ、細い体にサイズの合わないエプロンを着ている。
「何か?」
 呼び出した主人と舞台に座る少年を見比べ、その女性は柔らかい声で問う。
「ヴァイオリン(フィドル)を持っておいで」
 ちら、と娘の緑の瞳が再びフィーロを一瞥する。「はい」と短く了承し、彼女は裏手へと消えた。

 フィーロが、一体何が起こるのかと思考を巡らせている間に、彼女はフィドルを手に戻ってきた。エプロンは置いてきたらしい、簡素なワンピースの長い裾を翻し舞台へと近付いてくる。
「この子はアリアン。三日前から舞台に立ってるフィドル弾きだよ」
 彼女――アリアンは正面の段差から上ると、座ったまま自分を見つめている少年に手を差し出した。
「よろしく」
 フィーロもとっさにその手を握る。
「フィーロです」
 握手がすむと、彼女はすぐに調律に入る。四本の弦の上を弓が滑るのを聴くと、少年はハッとしたようにリュートの弦を弾いた。それを聴いているのか聴いていないのか、アリアンは散歩でもするような軽さで歩きながら楽器を整える。
「『風かぞえ唄』弾けるかい?」
「はい」
 ルイーゼが提示したのは、大陸でも有名な民謡だった。国や地域によって歌詞は違うが、そのメロディーは幼い頃に誰しもが憶え、口ずさむ。
 フィーロは初めの音を指で捉えると、傍らに立つ女性を見上げる。フィドルを構えて微笑む彼女と視線が交わされ、そして息を吸い込むと同時に下へと沈んだ。
 リュートの調べに、フィドルの強いメロディーが乗る。別の音質、別の音程、階段を上るフィドルと、階段を下りるリュートが同時に響き、フィーロの項がぞわりと震える。速いテンポのリュートの音色に、気紛れに散歩するフィドルの歌声。
 アリアンは、フィーロの口元がむずむずと動くのを見ながら、自分も唇を持ち上げた。足は自然と歩いていく。果てしない空を見上げながら歩いた、子どもの頃の光景。

 一つ、東の太陽から吹いた風。
 二つ、南の荒野から吹いた風。
 三つ、西の海原から吹いた風。
 四つ、北の山脈から吹いた風。

 最初のメロディーに戻る。一つ、東を向いた先にいたリュート弾きの少年を見ると、彼の黒い瞳もこちらを見る。最初とは全く別の顔がある。そして、それはきっと『ここ』にも貼りついている。そう思うと、アリアンの左手も素早く動く。どこにもない音が連なり、そして元の場所へと舞い戻る。
 アドリブだ! 少年の胸にうずうずと興奮が芽生えた。唸る気持ちを抑え、反撃の機会を待つ。だが、その前に鐘(ゴング)がなった。
「よろしい(グート)、もういいよ。
 フィーロ……だったっけ? 今日はアリアンと一緒に立ちな」
 少年は大きな目を女将と共演していた女性に向ける。
「あとは……そうだねえ」
 ルイーゼがグラスの底に残ったワインを飲み干すと、正面玄関と繋がる扉が開く。
「おはよう」

 女将の視線だけではなく、フィーロもアリアンもそちらを向いた。黒髪の青年が穏やかに頷き、劇場に入ってくる。
「ああ、おはよう」
 ルイーゼの口調が若干優雅になったのは、この青年への感情の表れか、それとも彼の纏う雰囲気によるものなのか。胸元の開いた上着に、細身のズボン。それだけでも個性的だが、ズボンの足元にフリルがついている。町娘の胸元にある可愛らしいものではなく、女王の絢爛なドレスについているような、そんなフリル。変わった趣向の楽師は山ほどいるが、フィーロがこの服装に会ったのは初めてだった。
 青い大きな瞳が、舞台に立つ少年を捉える。強い光の目だ。少年はまるで暴風に耐えるように床についた足を踏ん張る。
「そうだ、メルキロ。あんたも手伝ってあげてよ」
 メルキロと呼ばれた青年が視線を外すと、舞台上の二人もそれと同じ方向を見た。ルイーゼは彼に対し、顎でフィーロたちを示す。
「今日は対バンだからね。いつもと違う編成ってのも面白いじゃない」
 何かをたくらむような人の悪い笑みを女将は浮かべ、紅をひいた唇を思いきり歪めて笑った。その豪快な様子を眺めて一笑し、青年は未だ舞台の上にいる二人に歩み寄る。
「よくわからないけど、そういうことらしい。メルキロだ、よろしく」
 フィドル弾きとしたように、三人は握手を交わす。
「フィーロです」
「アリアンよ。貴方の楽器は?」
 青年は舞台の端に視線を向ける。色鮮やかな布を被せられたピアノがそこにあった。隙間から覗く木の足や添えられた椅子は古い年代を感じさせる。
「あとは歌を少々。曲を書いたりもするけれど」
 傍らのテーブルに荷物を置くと、奇妙な服装の青年は自分の楽器へと近付き、ヴェールを捲るように布を取り払った。
 ダンッ
 力強い両手の和音が、鋭く劇場内に響く。リズムを刻む左手と、メロウな右手の旋律。伸びやかな声が、そこに色を添える。
「こんな感じの」
 一つフレーズを披露すると、メルキロは眉を上げておどけた表情をする。
「おもしろいわね」
 アリアンは力を抜くように口元を綻ばせた。先程のデュエットの時みたいだ、と横から見ていたフィーロは思う。
「楽譜ならあるけど?」
 一緒にやる? と訊ねるように、青年は荷物から手書きの譜面を取り出し、彼女に見せた。アリアンの緑の瞳が瞬きも忘れて音符を追う。睫毛が伏せられた瞳が、ふと少年に振り向いた。
「読める?」
 王宮に召し抱えられた楽師ならいざ知らず、街の酒場に集う楽師の教養はまちまちだ。きちんと知識がある者は楽譜の読解ができるが、読めない者の数はそれを凌ぐほどいる。音の名前も知らず、その響きだけで記憶する者だって少なくない。
「少しは」
 手渡され、フィーロも青年の楽譜を見る。数多の音符がそこに縫い止められている。小さく区切っていけば、難解なものではない。小さく、区切れば。
「今日のステージで合わせるには時間がないわ。楽器の数だって足りないし、三人用に編曲するにしたって、やっぱり時間がないもの」
 少年が自分の範囲で読んでいる間に、アリアンはメルキロにそう意見する。ふ、とフィーロが顔を上げると、アリアンと目が合った。そこで、自分のことを言われていたのだと気付く。
 メルキロも同感だったのだろう。
「確かに。じゃあ、レパートリーから出し合う?」
 自分ではない二人の顔を眺めながら、三人は考える。お互いの出身や技量を推理し、各々の楽器を合わせたイメージを膨らませる。
「フィーロは何が弾ける?」
 そうして自分に質問がくることも、何となく理解はしていた。おそらく、この三人の中で一番経験が少なく、そして一番技術も拙い。だからこそ、マダム・ルイーゼはアリアンやメルキロと組ませたのだ。
 この二人が知っていて、なおかつ自分が弾ける曲。
「……『古の女神のうた』」
 フィーロの小さな答えに、二人は静かな反応を見せる。
「古典中の古典だな」
 メルキロの平然と告げる顔に嫌悪感はないが、同時に良い色もない。
「基本がしっかりした唄だし、遊べるんじゃないかしら」
 アリアンは、もう頭の中に三つの音色が鳴っているのかもしれない。楽器を持たない左手の指が忙しなく空中で動く。
「歌は?」
「貴方が歌っては?」
 メルキロの問いに、フィーロは当然のように彼を見返した。
「合うかしら? 静かな曲だけど」
 青年の喉を開けた伸びやかな発声を思い出し、アリアンは思案顔だ。『古の女神のうた』は、遥か昔の女神を語った唄。清廉な彼女に降り注いだ悲劇、そしてその運命を受け入れた聖なる少女が、女神として天に昇った物語。囁くように人から人へ、親から子へ、そうして長い時間をこの唄は生きてきた。吟遊詩人の歌声が灯火なら、メルキロの歌い方は大きな焚き火だ。
 アリアンの瞳に、青年は唇をつり上げる。試している、そんな雰囲気を彼女に見た。
「オーケイ。一人遊びにならないように気を付けなきゃね」
 にっと微笑むと、アリアンも同じように目を細めないまま口元で笑った。ふんわりとした服装や細い体型は一見、下町で働く女中にも似ているが、その目はまるで別世界を思わせる。卑しさを裏に隠した虚飾の光ではないと、真正面から緑色の双眸を見つめればよくわかった。

「おはようございまっす!」
 大きく張りのある声に、三人は振り返る。メルキロが来た時と同じように、正面入口の廊下から、四人の若者が劇場の扉を開いた。四人とも口ぐちに挨拶を発し、大きなフロアをぐるりと見渡す。
「ああ、おはよう」
 カウンターで酒に本腰を入れていたルイーゼが、ひらひらと手を振る。
 四人の視線が、舞台付近にかたまっていたフィーロたちを舐めた。少年たちも、同じように彼らを見る。髪を舞台俳優のように整え、革や金属の装飾品をジャラジャラとつけている。自分の村にはいなかった、というのが少年の率直な感想だった。都会はよくわからない、と続く。
「今日の対バンのメンバー。黒髪がメルキロ、娘っ子がアリアン、ぼうやがフィーロ」
 女将が指差し、三人の簡単な紹介をする。
 四人の若者の中から、明るいオレンジの髪の青年が歩いてくる。たくさんの装飾品や風変わりな革のズボンは、メルキロとは違う方向の個性を放っている。
「オレはリーエタット。アイツらは右からスモック、ヤン、デウス」
 そう自己紹介をすると、彼は黒髪のピアノ弾きに手を差し出した。メルキロも特に気にした様子なく、その手を取る。
「四人の楽隊(バンド)なんだ?」
「ああ、組んでから二年」
 旅の楽師は一人(ソロ)が多いが、楽隊を組んで街から街へ流れる者たちもいる。そこに大きな壁はない。旅先で意気投合すれば、そこから共に旅をすることもあるし、楽隊を解散する例だって少なくない。
「そう、よろしく」
 青年たちが挨拶をする中、フィーロとアリアンはお互いに顔を合わせた。年の順から言えば、リーエタットと名乗った若者がメルキロをリーダーと見るのは当然だろう。しかし、向けられる瞳の感情が違う事実も否めない。
「楽しみにしてるよー」
 リーエタットは去り際にそうフィーロたちに一言告げると、そのまま他のメンバーと裏手に消えていった。
「いやあ、稀代の歌姫と会えるとは!」
 三人が再度視線を合わせる暇なく、入口から野太い声が響き渡る。縦も横も大きな白髪混じりの男が陽気に笑う隣で、痩せぎすの女性が呆れた瞳を向けた。
「その歌姫とは永遠に会えないけどね」
 皮肉げに口の端を曲げる女性の声は、ひどくしわがれていた。いや、嗄れたという表現すら生易しいほど掠れ、低くこもった濁声(だみごえ)だ。まるで壮年の男を追い払うように前髪を掻き上げるが、彼の方は全く意に介していない。
「歌姫と会えずとも、エードラムという一人の女性とは会えた! あー、あの時の高揚感は今でも思い出せる。あの狭い酒場に『女神』が舞い降りたのかと思ったからのう」
 地響きのような大きく低い声で、男は身振り手振りその記憶を伝えようとしているが、女性の方はつまらなそうに視線を外した。
「おはよう、ルイーゼ。昨日もらったあんずの酒、美味しかったわ」
 話したりない男をかわし、先程入ってきた彼女は店の主に挨拶をする。
「そう、それはよかったわ」
 心なしか、女将の声色も凛としている。
 呆れた色を見せていた女性の瞳が、フィーロたちに向けられる。背筋を伸ばすような冷たい空気に、少年の鼓動も速くなる。
 焦げ茶色のウェーブがかかった長い髪の向こうから、月の色の鋭い光がこちらを見ている。整った鼻梁に細く美しい顔立ち、顔に刻まれる皺と滑らかな肌。村の女性と比較してみるものの、フィーロにとって彼女の年齢は想像の範疇を越えている。
「こっちは今日のメンバー。
 アンタは一人でやるの? エードラム」
 ようやくルイーゼに紹介されたところで、今度は放っておかれた大柄の男が割って入る。
「いや、ボクと一緒にやろう!」
「はあ?」
 彼女――エードラムの手を取ろうとして、男の熊のような手は骨ばかりのそれに払われた。
「ルイーゼ、このひと楽師なの?」
 女将は酒に飽きたのかキセルを咥えながら、
「ああ。オルフェオって名前でリラを弾いてるよ」
 へえ、と抑揚のない返事をして、エードラムはその男を上から下まで眺めた。
 年は自分より大分上だろう、五十か六十か。ジジイもいいところだ。ほとんど白くなった頭髪にはわずかに灰色がまじるのに、赤ワインのような色の瞳はキラキラしていて、奇妙な色合いを醸し出している。外見から出身を判断することは難しい。時折、訛る語尾も知らない地方のものだ。
「……オルフェオなんて、随分大きく出たのね」
 本名でないのはすぐにわかった。この名前は有名すぎる。
「せっかく自分で自分を名づけるのなら、なりたいものがいいと思っての」
 と、傍らに抱えた鞄から、リラを取り出してみせる。爪弾けば花のように柔らかい音が零れた。ぼんやりと周囲に滲むような響きは、流行の際立った音色からはかけ離れたものだ。
「ふうん?」
 エードラムは片眉をつり上げる。冷淡にも映る瞳は、試すようにリラの弦を見つめた。
 鞄を小脇に抱えたまま、オルフェオと名乗った男はリラを弾き始める。何の唄なのか、フィーロにはわからなかったが、そのメロディーの景色は見える。ポン、ポン、と草の上を小さな足が軽やかに跳ねるような音。風に吹かれた花びらみたいに、妖精が笑いながら現れるようだ。
 聴いていたエードラムの表情が、わずかに変化した。無表情はそのままに、長い睫毛に縁取られた瞳の鋭さが増す。彼女だけではない。アリアンもメルキロも、その旋律に姿勢が変わる。いつも不思議に思う。名前を告げ、握手をし、目を合わせて微笑んで、そんなことよりも遥かにその人物を浮き彫りにする。
「この花束は、憧れの『女神』様に」
 恭しく礼をし、オルフェオの自己紹介は終わった。華やかなプレゼントに、贈られた女性は静かに息を吐く。
「深紅の花束はもらい飽きたからね、野草でも綺麗ならもらってあげる」
 鼻を鳴らすついでにそう返すと、エードラムは先程の若者たちと同じように裏手へと向かった。
「むふふふ」
 鼻にかかった笑い声に、アリアンがぎょっと身を引いたのがフィーロの視界に映った。オルフェオがこの上なく怪しく笑いながら、丸い頬を持ち上げている。
 その顔がくるりと三人の方を振り向く。爛々と光る瞳は、様々な色の感情が混じり合っている。
「いやー、よろしく」
 よろしく、よろしく、と彼は三人それぞれと固く握手をし、上機嫌で裏手へと進んでいった。握手をした手を宙に浮かしたまま、フィーロは自分の手のひらを見つめる。あまりに大きく、そしてあたたかい手だった。

「アンタたちも楽屋に行って準備したら?
 ここにいても、邪魔なんだけどねえ」
 カウンターでキセルをふかしていたルイーゼは、ようやく一段落ついたとばかりに中に詰まった灰を落とす。
 目配せも特にないまま、三人は誰からともなく各々の荷物を手にする。フィーロもリュートを布でくるむと、鞄の中にしまった。
 心臓が思い出したかのように激しく鼓動する。胸の奥だけじゃない。大きく呼吸すると手先が細かく振動する感触が伝わる。照明代わりの明かりが消された薄暗いフロアで、照らされた場所の色が眩しく映る。
「大丈夫?」
 フィドルと弦を手にしたアリアンが、鞄を手に俯いている少年の様子を窺う。
「疲れちゃった?」
 恰好や言動を見ていても、舞台に慣れていないことは一目瞭然。短い時間に多くの楽師と出会い、その音や個性にあてられても仕方ない。
 フィーロは丸めていた背を元に戻すと、首を横に振った。
「いや、大丈夫」
 正確に言うならば、彼らにあてられたのではない。彼らの持つ感情の波、色、そうした実際に目で見ることのできないものを、目で見る。それが、この疲労の原因だろう。
「なかなか面白そうだね、今夜の舞台も」
 気遣うように少年の背をポンと叩いたメルキロが、薄い微笑を浮かべて零す。
 わずかに自分の音を示した者も、そうでない者も、一体どんな舞台を作りだすのだろう。この楽師たちが一夜の舞台で互いの曲を競い合う。客の表情と拍手が評価だ。少年は口をぎゅうっと引き結ぶ。それでも堪え切れず、唇は子どものように曲がり、弧を描いた。
 今まで、村の仲間以外の演奏はほとんど聴いたことがなかった。そう、この旅に出るきっかけとなった、キタラを弾く旅の男くらい。
「二人は」
 フィーロの声に、裏手へ続く扉を開いたアリアンたちは彼に視線を向ける。
「朱で塗られたキタラを弾く楽師を、見たことある?」
 そのために、この劇場へ来たと言っても過言ではない。金を稼ぎつつ、情報もきける。都合のいい仕事だ。
「なかなか派手好きなのね。見たことはないけど」
 アリアンは扉を潜り、狭い廊下を歩きながら残念そうに首を振る。
「僕もない。朱塗りのキタラなんて拝んでみたいくらいだ」
 メルキロも真剣な顔で重いため息を吐く。
「そっか。
 探してるんだ、その持ち主。キタラのことばかりで、顔ははっきりしないんだけど」
 それが難点だった。世にも珍しい朱で塗られたキタラ。それを弾いている旅の楽師。その様子は、その時の光景は、しっかりと脳裏に刻まれている。だが、楽師自身の容姿や表情、特徴を掴もうとすると、煙のように輪郭がぼやけてしまう。こうして誰かに訊ねる時も、身体的特徴があまりにも曖昧なので、キタラの説明がまず初めにくる。
「そう。いま、この街にはいないんじゃないかしら。見たことないし」
 暗く狭い廊下をつきあたりまで行くと、その左右に扉があった。左からは食卓のにおいがする。夕食の準備でもしているのか。
 アリアンは右の扉を開いた。大きな机と椅子、そしてソファーの周囲に、それぞれの荷物が所狭しと置かれている。リーエタットと名乗った若者たち、エードラムとオルフェオも同じ。九人の楽師が入ると、かなり狭く感じる。この中で衣裳や化粧などの準備、楽器の調節をするのだろうか。
 楽隊(バンド)の若者たちは、持ち込んだ酒や煙草で時間を潰している。濁声の美人と大柄の男は、何やら紙切れを見ながら打ち合わせをしている様子。メルキロは特に気にすることもなく、その端に陣取った。フィーロも空いている椅子を探して、同じグループの青年の近くに座る。アリアンは従業員の場所に置いた荷物を取ってくると出ていった。
 アリアンが戻るより早く、ルイーゼが楽屋に顔を出した。
「今日の順番。
 最初が、リーエたち。次がぼうやたち三人。最後がエードラムとオル。異論は聞かないからね。
 夕方の鐘が鳴ったら店を開けるよ。それまでにまかない喰っときな。以上」
 異議を挟む暇を与えず、女将は必要な情報だけを告げると、扉も閉めずに慌ただしく去っていく。そのすぐ後から、アリアンがフィドルのケースと手荷物を抱えて入ってきた。あの大きな声だ、彼女にも聞こえていただろう。
「今日は芋と葉野菜のスープだって。ここのご飯、美味しいよ?」
 彼女は世間話をしながら、にいっと楽しげに微笑を浮かべる。フィーロもそれと同じように口元をつり上げ、そして頬の筋肉が重いことに気付いた。頬だけではない。首も肩も、糸で縛られたように固い。
 知らず知らずに緊張していたのか。フィーロは顔に熱が集まってくることを自覚した。この中で一番年下、そして一番経験がなく、舞台を知らない。育ての親であるばあちゃんのことを思い出す。リュートを習うのが楽しくて仕方なくて、一生これを弾いていたいと告げた時の、ばあちゃんの皺の寄った顔。
『フィーロがそう望むのは勝手だ。でもね、どう望んでいるかは、ちゃんとリュート(これ)に示しておやりよ』
 劇場で金を稼ぐなら、ヘマはできない。自分の演奏で劇場に利益が生まれると思わせなければ、次は断られてしまうだろう。村で幼なじみに曲を披露する時とは、まるで違う場所にいる。今までとは別の世界。暗い森を彷徨いながら、繋いだ手を離さないようにリュートと歩いていく。
 ――大丈夫だ。
 落ち着かせるように、胸に手を当てる。ドクン、ドクンと拍動を感じた。

(続)

【2013/08/18】

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