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創作のために #3 創作者は、理解者を求めている


 

 詩とは何だろうか。
 ひとそれぞれの解釈があるとおもう。
 わたしの場合は、「詩は、現実と非現実のあわいにあるもの」とかんじている。そこにポエジー(詩情)が存在する。だから、わたしにとって詩は、現実と非現実の境界にあるものを、なんとか言葉で表現したものと、概ねそんなふうに理解している。


 私たちに見える世界は、基本、現実である。あたりまえである。でも、たまに、というより、まれに、なぜか現実という虚構の彼方に、現実という舞台の裂け目に、現実という葉っぱの裏側に、現実という揺るぎない大地の地下に、よくわからないもの(詩情)を見たり、かんじたりする。しかも、ほんの一瞬だったりする。その刹那のポエジー、つまり「詩情のしっぽ」のようなものを捕まえて、ちょっとでも「言葉」できたら、わたしの場合、詩になるかんじである。詩を書くことは、珍しい詩情を捕獲するところから始まる。詩人は、ある意味、珍獣ハンターなのである‥‥。


 でも、おそらく、どこにでも詩情はある。尾形亀之助が、日常の生活、例えば、眠れない夜や、ぼんやりとした春の日を詩にしたように。ただ、それに「気づき」、その詩情を「文字にする」ことは、なかなかややこしい作業だとおもう。なぜなら、「気づき」を「言葉」にしようとしても、「ほんとうに気づいたこと」は、「言葉」にできないからである。「言葉」は、もともと物事を区切るため存在しているので、「気づき」といったあいまいなものを完全に表現することは不可能である。しかし、まれな読者は、詩人が「ほんとうに気づいたこと」を、「言語化」された詩を通じてかんじとったりする。おもしろいことに、詩人が「ほんとうに気づいたこと」以上に、まれな読者がそれをかんじとったりすることがある。詩を読む人が詩人、と呼ばれる所以である。
 書いている詩人は、読者という詩人を求めている。
 つまり、どんな創作者も、ふかい創作者(理解者)を求めているのである。








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