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ソウルで見つけた予想外の自分へのきもち

ー私って、思っていたよりも、自分のこと嫌いじゃないのかもしれない。


先月、親友と初めて訪れたソウルでの旅行中に、こんなことを思った。

その時、これは俗に言うルッキズムの一種なのかもしれないと考えさせられた出来事があったのだが、嫌な気持ちよりも、結果前向きな気持ちになる不思議な感覚を味わったので、文章にしてみようと思う。

ソウル初日に明洞で夕食を済ませ、ふらりと立ち寄った化粧品店で随分と強引な接客を受けた。


「あー!あなたはシミとそばかすがダメね!」


接客の流れでマスクを少しずらすと、年上の女性店員に大声でそう言われた。

人生で何度も化粧品を買っているが、こんなに雑な接客を受けたことがなかったので、言葉の強さとデリカシーの無さに呆気に取られてしまった。

確かに私の顔にはそばかすがある。
頬骨に沿って、濃いものから薄いものまで大小万遍なく。

幼少期は色白で、その頃からそばかすがあることを自覚していた。

年頃になるとそれなりにコンプレックスに感じていたし、アラサーになって真面目にスキンケアに興味を持ってからは、そばかすの無い肌に憧れて何度も美容皮膚科のホームページを検索している。

私が「あぁ、これは子供の頃からあるやつで…」と言おうとすると、

「みんなそう言うの!もっとケアをしていれば、こんなにひどくならなかったのに!!」

と遮り、今からでも遅くないと、金箔入りかたつむりクリーム(6個セット)の説明が止まらない。

どうやら彼女は私達のことを20代前半の若者だと思っていたらしく、35歳だと伝えると、次はまじまじと顔を覗き込み

「確かに笑うと目尻の皺があるね!」

と追い打ちをかけてきた。

一緒にいた親友に対しても散々な言いようだし、私の右腕も掴んだまま離してくれない。

販売員の経験がある私は、これが良い接客だと思っているなら恥を知れよ。と思いながら、なんとか押し売りを拒否して店を後にした。

疲れ切ってホテルに戻ってから冷静になると、
私は自分のそばかすを否定されたことに傷ついている、と気が付いた。

なんとなくモヤモヤとしていると、友人が
「韓国の洗礼を受けたって感じだったね。」と苦笑いしながら言った。

確かに。

これまで私はイタリア・ポルトガル・クロアチアを訪れたことがあるが、そばかすはもちろん「美しさ」について指摘されたことは無かった。(人種差別は多少受けたことはあるが。)

接客の強引さだけではない違和感はそれだったのかと思った。

これは今までには無い、韓国独特の感性なのかもしれない。

人によるとは思うけれど、あの人はそばかすが無いことが美しい肌として当たり前の条件だと思っているのだ。

明洞を歩いていると、思っていたよりアジア圏外からの観光客が多くて驚いたのだが、果たして彼女は韓国人より色白だがそばかすのある欧米人や、ダークスキンの黒人が来店しても同じものさしを振りかざすのだろうか。かなり興味深い。

そんなことを考えながら、
では、なぜ私は彼女の言葉に傷ついたのだろうと思った。

自分でコンプレックスに思っていることを指摘される時、人は「そうなんです…」と同調する可能性もあるはずだ。

しかし私は愛想笑いをしながら、心の中では明らかに「うるせえよ」と万全の戦闘モードだったのだ。

しばらく考えた結果、ありきたりではあるが、
それは今まで私が出会ってきた人達のおかげなのだと答えを出した。

今回一緒に旅をした親友をはじめ、
今はもう連絡先すらわからなくなってしまった人達も、私のそばかすを見て「美しくないから取った方がいいね。」なんて言う人は一人もいなかった。

そもそもそんなこと気にも留めていなかったり、「梨花とか深津絵里とか、芸能人でもそばかすあるよ?」と、むしろ「かわいい」「うらましい」と言ってくれる人ばかりだったのだ。

自己肯定感が低いと思っていた私だが、低いなりにもそういった周囲の些細な言葉に自尊心を支えてもらってきたことで、思いの外「そばかすがある自分」を気に入っていたのだ。


私のそばかすを否定している人間は、この世にさっきの店員と私しかいないじゃないか。



思い込みの強制ポジティブシンキングではなく、
スッと染み入るような納得感があった。

意外なタイミングでそんな事実に気付かされた私は、帰国してしばらく経った今でも、以前ほど鏡にうつる自分の体に落ち込まなくなった。

コンプレックスである低い鼻や太い脚を見ても、まあかわいいもんじゃないかと思えるマインドが継続できている。

自分で自分を蔑むことさえしなければ、
今のところ敵は名前も知らない韓国人女性が一人だけ。

ましてや彼女は、こちらから年齢を教えるまで私を20代前半だと思っていたのだ。
結果褒めてくれてるじゃん、最高だ。


最近は「多様性」という言葉が世間を飛び交っているけれど、正直私はこの言葉があまり得意ではない。

様々なジャンルの、それぞれ異なる立場の個人同士の議論を見ていると、自由なはずの「多様性」に縛られ、余計に事をややこしくしているように思えるからだ。

誰一人として同じ人間がいないことは、既に分かりきっているはずなのだから、カテゴリー分けすら愚問なのでは思っている。

自分や他人が何者なのかはひとまず置いておいて。
まずは自分に優しく、そして自分を大切にしてくれる人に丁寧に向き合っていく。
結局そういうことなのかもしれない。

#エッセイ #わたしの旅行記 #韓国旅行 #独り言

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