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思いがけない再会[2018年/西双版納編その2/中国の高度成長を旅する#22]

ゴールデントライアングルの街へ 景洪~打洛

 西双版納二日目、私たちは景洪からミャンマー国境の打洛(ダールオ)へ行くことにした。
 私はこれまでに、北方領土や竹島、尖閣といった日本の国境の島々を回ったり、かつての日本領を訪ねてみたりと国境にこだわったテーマで取材を続けて作品を発表してきた。そうしたことをするきっかけというのは大学生時代に海外で陸路の国境というものに接する機会があったからだ。その一つが一九九二年の雲南省だった。

 西双版納州に到着したとき、ミャンマーやラオスがかなり近いことを初めて知った。しかも山を越えて何時間もバス乗った後に現れる陸路の国境だった。このあたりのミャンマー側はゴールデントライアングルといって麻薬の栽培地としても有名だったから冒険心を煽られ、是非行きたいと思った。ところが当時は途中の勐混(モンフン)までしか行くことができなかった。[勐とはタイ族の言葉で村を意味するらしい]。
 というのも当時はまだ打洛の国境が開いていなかったのだ。そうした経験が逆に、私に国境というものを意識させ、国境に行きたいという気持ちをはじめて煽り立てられた。今回、国境へ向かったのは、そのまだ見ぬ打洛アタックをリベンジをしたかったからだ。

 二日目の朝は八時発のマイクロバスに乗って打洛行きに乗る。嶋田くんも時間通りちゃんと起きてシャワー浴びて、スッキリとまではいかないが出発することができた。ミネラルウォーターを買ってバスに乗り込む。ひんやりした朝だった。
 二日酔いに関しては思ったより軽かった。なのでバスに乗っていても吐き気を催すことはなく、車窓を見ることができた。景洪を離れるとバスはけっこう深い山に入っていく。景洪から勐海(モンハイ)までは所用約一時間半。約五五〇メートルから約一三〇〇メートルと標高差は実に約七五〇メートルもある。


 以前は山肌を縫うように走る片側一車線もない川沿いの狭い道を走った。川の色は濁流の小川で、川岸かなり近い狭い道をグネグネと行ったのを覚えている。ところが今回走ったのは全然違う場所だった。山の中腹にある片側二車線の道で、途中、トンネルがあったり高架橋があったり、立派なガソリンスタンドがあったりとかなり整備されている。それでいて沿道の照葉樹は見事で熱帯に来たという実感をようやく持てた。

 勐海のすこし手前に検問があり、そのすぐ手前に鳥居のような立派な門が道の左側に一瞬見えた。スマホの百度地図ではそこが巴拉だと表示した。これは私が二六年前に訪ねた巴拉の名前と同じだが、場所がまったく違う。川にしても進行方向の右側に見えた。これはどういうことなのだろう。意味が分からない。



 バスは検問で停車する。私たち二人は外国人なのでパスポートチェックがあった。標高一〇〇〇メートルを越えるほど上ってきたためか、外に出るとひんやりした。景洪より気温が四、五℃は低い。銃を持った迷彩姿の歩哨がいてなかなか物々しい。
 嶋田くんはさきほどから無言だった。おかしいなと思ったら、検問のためにバスから降りたとたん、彼はその川に面しているなだらかな藪のところに向かっていきなり吐き出した。つまり彼はまだかなりの二日酔いだったらしいのだ。そして吐いた後、彼は言った。
「すっきりしました。検問に救われました」
 彼が吐いた後で、パスポートをチェックしてもらう。そこには漢族の若い兵士がいて、腕にスマートウォッチをつけていた。こんなところでも携帯の電波が飛んでいるのだ。

 勐海に着いたのは九時五〇分ぐらいだからちょうど二時間弱ぐらいだ。前回、訪れたときは耕運機がゆったりと走る、高い建物が見当たらないのどかな雰囲気の町だった。タイ族文化の雰囲気が濃厚な、確か舗装すらされていない相当な田舎町だったことを覚えている。

ところが今回、勐海は見違えていた。沿道にはスクーターが走り、商店もたくさんある。二〇階建てほどの屋根がタイの寺院のような巨大な高級ホテルが建っている。また中国普洱茶第一县勐海という大きな看板が立っていた。昔はこのあたりがお茶が名産だということはそんなに謳っていなかったはずだ。私は知らなかったのだが、ここ二六年の間にこの西双版納州は普洱茶の中国第一の名産地として町おこしがされていたらしいのだ。だからこそ検問の前に茶畑がちらほら広がっていたのだ。

  勐海を抜けると片側一車線ずつのみの狭い道になった。ようやく辺境の雰囲気になってきたのだ。勐海から一気にがっと降りて勐混に出てくる。

このあたりは田んぼがあってのどかだちょうどそのころ途中から乗ってきた色の黒いおじさんが降りようとしていて、ふと思っていたがスポーツメーカーの仕立ての良いTシャツを着たおじさんだ顔つきからしてハニ族なのだろう。道はその後一時間ずっと走ってたのだが、勐混のあたりはなだらかな上り坂ですっかり舗装されていた。洋服の人ばかりだが顔つきがここまで来ると明らかに違ってきた。


 椰子などの青々した木々が自生していたり、茶畑があったりと山奥の農村という感じの風景だった。明らかに辺境だ。バナナもあるし畑もある。出発して二時間四五分ぐらいのときには一回トイレ休憩があって、沿道にはやっぱり頭にスカーフを巻いた小柄で、顔が小作りな少数民族のおばさんがいて、キノコを木の台の上で売っていた。

 トイレは見事なというか最悪のニーハオトイレだった。仕切りは低く、立ち上がれば隣が丸見え。便器に金隠しはなく、縦に溝が掘ってあるだけ、座ると、紙とうんこがすぐ近くにあって、ウンコを落とすと、はねそうだし非常に臭かった。そうした貧しい沿道の集落なのに、スカーフ姿の少数民族のおばさんはスマホを片手に店番をしていた。貧しさとハイテクがここには同居していた。


 結局、打洛のバス停に着いたのは三時間半後のことだった。このあたりまで来ると住民に漢民族はほとんどいない。洋服を着て夏服の洋服を着ている子も明らかに顔が真っ黒で少数民族だ。標高が六〇〇メートルほどにまで下がったのでまた熱帯の気候だ。
 この国境の対岸は、飲む打つ買うができるパラダイスとして繁栄していた。それは二〇〇〇年代の初めのことだ。カジノあり、風俗あり、タイのオカマショーやロシアストリップまであったという。なぜ、そうしたことができたかというと、モンラーはミャンマー政府の力の及ばない場所だったからだ。国境の向かい側はシャン州北東部、このあたりは軍閥が自治権を得ていた。彼らは中国人の金持ちを当て込んでパラダイスを作っていたというのだ。
 一歩、国境を越えたかったが、基本的に外国人の出国禁止。ゲートの向こうの高台に立つ立派な黄金ストゥーパが見えたのだが、それはミャンマー側にあって、そこに行くことは無理だった。


このストゥーパは国境の向こう側


思いがけない再会 勐混

 打洛から引き返して、勐混に付いたときには午後二時近くになっていた。また標高が上がって一二〇〇メートルほど。打洛に比べると勐混はやはり涼しい。

かつて勐混に車などはなく、耕運機に荷台を付けた車がゆっくり移動していただけの小さな村だった。真ん中にはだだっ広い、未舗装の一本道があり、日曜になるとタイ族やハニ族などが集う市が立つ。名前の通り、民族が混じり合うよう光景が見られるということで、バックパッカーたちの人気をささやかながら博していた。市場といっても店舗はなく、リアカーの荷台やゴザの上に農産物を売っているだけだった。道の両側にだけコンクリート二階建ての粗末な建物が申し訳程度に並び立っていた。そのときは気がつかなかったが、その外側にはタイ族らが住む、木造の住居があったという。


 今回バスを降りると、道路は幅はそのままに舗装され、並木がよく整備されている。車やスクーターがときおり通っていて、沿道の建物は三階建てや四階建てのしっかりしたコンクリート作り。しかし住んでいる人は圧倒的にタイ族が多く、漢民族はほとんどいない。着ている服も長袖のピチッとした上着に巻き、スカート頭には布を巻いているというスタイルで二六年前の景洪に来たかのようだ。

 電気屋や金具屋など仕入れて売る常設の店の手前で、日曜でもないのに路上市が立っていた。果物や蜂の子やちまきとか、そういった食べ物類を売る屋台がたくさんあった。大きな麻袋の中にモチ米を入れて売ってもいる。これは生産者が直接売りに来るのだろうか。とすれば地産地消だ。私がうねうねと動く蜂の子を売る七〇歳ぐらいのタイ族男性にハチの子を指さすと、「これは村にある蜂の巣から取ってきたものだよ」と教えてくれた。
 蜂の巣の中にはサナギもあってけっこう黒い。私はこのとき、当時と同じことをあえてしようとした。それは何かというと生で蜂の子を食べるという行為だ。蜂の子を売ってくれるように言うと「こんなの一個ぐらいタダでいい」とのこと。遠慮したが聞き入れてもらえなかった。
 私は意を決してそのまま丸呑みした。大丈夫なのか心配だったが、いいようになるさと自分に言い聞かせた。ちなみにこの後私が勐混で蜂の子を丸呑みしたことが勘違いだったってことが分かった。丸呑みをしたのは別の旅行者だったのだ。

 午後二時ごろになっていたがここで遅い昼食をとった。辛い高菜の炒め物の辛い高菜と豚とピーマンの炒め物、カリフラワーなど。切り盛りしてる女の子はやっぱり少数民族風だ。洋服を着ていても顔つきがやはり漢民族とは違う。食堂といってもテーブルが三つ四つあるだけの店で、床下にはゴミが落ちたりとかして、衛生はあんまり良くないところが懐かしい。店にはタイ族のおばさんが民族衣装のままで食事をしていた。
 このあたりで一度お腹が痛くなって二人して有料のトイレに入った。トイレといってもニーハオトイレ。男が二人して、仕切りのみの開放的なトイレでそれぞれが気張った。そうすることで絆が不思議と強くなった。このトイレの番をしているタイ族のおばさんに日曜バザールの写真を見せたところ、意外な反応をした。
「あーこの人だったらあそこの村にいるよ」と教えてくれたのだ。
 右の、頭に鉄の金属の装飾がじゃらじゃらついた帽子をかぶったハニ族のおばさんは「この人はもう亡くなっちゃったよ」とのこと。小さな町といっても数千人はいるはず。なのにわかるものだろうか。私は半信半疑だったが、せっかく教えてくれたので行ってみることにした。
 そうして何人か聞き込みしながら、その通りに歩いて行くと、どんどんと近づいていった。途中市場にも寄った。タニシやそうめんが売られていたり、せんべい状の納豆(ドーサー)が売られていたりした。約二〇枚で一〇元。すごく臭く、食感はぬれせんべい。唐辛子と醤油の味がきつく、すりつぶして半生せんべい状にしてあるが、歯触りと基本的な味は紛れもなく納豆だった。

 その生っぽい物を売る市場から北へ入っていく。コンクリートの舗装がされていて建物も木造の家というのは皆無だった。もちろん電気は通っているし、建物も木造の高床式とかではない。近代的な住宅が並んでいる。伝統的なタイ族の住んでいる村という雰囲気は全然ない。

煎餅納豆

 家々には庭がけっこうある。家があって覗いてみると普洱茶らしき葉っぱが一面に分かれていたりして、この一帯が普洱茶で稼ぐようになり、自給自足の暮らしから抜け出していっていることが見受けられた。ただそうした家の中には、高床式の建物を倉庫代わりに残しているところもあって、その名残はうかがえた。


 タイ族のおばさんたちに写真を見せていくうちに、だんだんと場所が特定できてきた。このあたりは住んでいるのはもう完全にタイ族ばかりだ。服装からしてそうだ。建物はレンガやコンクリートになっても、まだ豚を飼っている家もあったりとかするところがローカルだ。三〇分ぐらい歩いているうちにようやくそのうちへたどり着いた。


この写真を見せたところ、街の中心から数珠つなぎでそのうちの一人がたどれた。


 三〇~六〇代という年齢がバラバラな七、八人のタイ族女性が井戸端会議しているところに本人がいた。六〇代と思しきタイ族のおばさん。ハニ族のおばさん相手に野菜を値切っている左側に写っている横顔の女性を、「これは私です」といって彼女は指差した。
 私は彼女の顔を見て納得した。確かにこの方だ!
 服装の色は全然違うが着ているものは全然変わっていない。当時も花がらのタオルのようなものを頭にかぶっていて長袖のぴっちりしたシャツ、そして巻きスカートを履いている。ややふっくらしたが、ほおの高い輪郭や目つきはそのままなのだ。


 井戸端会議は私の持ってきた写真で盛り上がっている。しかもそれはタイ族の言葉(バンコクのタイ語ではなくこの付近のタイ語。一部通じるが全部は通じない。タイ東北部のタイ語に近いという話も)らしく、嶋田くんもお手上げのようだ。
 話になんとか割りこんで、ようやく聞き出せたのはイラハーさんという名前だけだった。別に私も会ったからといってたまたま一番にいたおばさんの写真を撮っただけ。なので何も話すことはなかった。突然来てしまったことの決まりの悪さは、写真を見て喜んでくれたことで、やや収まったがそれだけのことだ。だけど少しぐらいは話をしてみたい。
「この一帯、町とか建物は変わったんですか」
「あのときは確か野菜を買おうとしてたんだと思うわ。この写真に写ってる(ハニ族の)おばさんは亡くなっちゃったわ。この写真の真ん中に写っている人はあそこにいるわよ。あのころからはだいぶ変わったわ。このあたりの家は二〇〇〇年ごろまでは木造だったけど、その後コンクリートに変わったからね」
イラハーさんはしみじみとした様子で答えた。しみじみと言われることで、西部大開発の恩恵がこんな地方にまで浸透しているんだということがわかった。
 漢族のたくさんやってきたこと、例えば、彼らがたくさん入植してくることや経済発展によって漢族化が進むことへの違和感を覚えモヤモヤしている一方、四川の山奥のとんでもない貧しさに政府は格差をどうにかしろよと思ったり。村の伝統を近代化することになって壊したりすることを嘆いていたり、と統一性のない考えが頭に浮かんできたのだが、彼女たちの暮らしぶりを見ていて、そんな簡単ではないとも思った。お茶という産業も持つことができ、家もそこそこ快適なものに改築され、そのことに満足しているのだ。彼らにとって、豊かになることは結果的に良かったようなのだ。
 話が終わると一眼デジカメとスマホで記念撮影をした。その後、その場にいた二、三〇代のスマホを持った女性にデータをリレーしてその場で渡した。どういうことかというと、イラハーさん一人や私とのツーショット写真を嶋田くんにスマホで撮ってもらい、それぞれの画像データを私が嶋田くんに転送し、嶋田くんがその若い女性にWeChat経由で即座に送ったのだ。
 勐混という、まったく舗装がされず、民家にはおそらく電気もなく走っているのは耕運機か豚か鶏かという辺境の地が見違えるようになった。日曜のみの路上市場が常設され、道は舗装され、建物は快適になり、民家に電気が通り、スマートフォンまで使えるようになったのだ。色とりどりの衣装を着た、中には金属片をたくさんつけた冠のような帽子をかぶったハニ族の女性がいなくなったりして、自分とはまったく違う世界へ来たこと、そうした世界を垣間見れるという興奮というものは一切ない。ごく普通の田舎町になっていた。来るのに許可証が必要な未解放地区ではもはやない。
 不便な中やっと来て、経済的恩恵が全然ない辺境の地に立ち、ハニ族のおばさんたちに冠のような帽子や鞄をしつこく売りつけられたりすることで得られた、「こんな果てまで来たぞ」という興奮は一切ない。そうしたものがないからこそ肩透かしを食らったような気がしたし、がっかりした。だけど、おばさんが「二〇〇〇年ごろに建物がコンクリートに変わって行ったのよ」としみじみとで語ったことで、経済的恩恵を受けられたということへの満足感というのが溢れていた。それに比べると、旅行者が残念に思う気持ちっていうのはエゴだという一面があることを思い知った。

村は消えてしまった? その1 勐海~勐巴拉~巴拉村

 乗り合いワンボックスで三〇分、山を登っていったところに勐海の市街地があった。この街の発展ぶりは、高級茶葉で稼いだお金で作り上げた、中国版ニシン御殿ともいえる街だった。

 そこから私たちは、勐海と景洪の間にある巴拉(バラ)という村に行くつもりだった。そのワンボックスは勐海行きだったが、嶋田くんが運転手との間で話をつけてくれたので、そのまま行くことにした。
「次は巴拉村を探すんだけど」と私が言うと、
「それってどこですか。運転手はこの近くに勐巴拉(モンバラ)という場所があるって聞いてます。そこはゴルフ場とかがあるリゾート地みたいですけどね」
 私はそのとき打洛へ向かう途中、パスポートを見せた検問所、そのすぐ手前にあった山の中の、同じ名前の村のことがどうも気になっていた。とはいえその巴拉は、同じ名前とはいえ景色がまったく違っていた。前回のように濁流の小川の脇に道があるわけでもないし、その小川を渡るための筏があるわけでもない。山腹に広がる木造の住宅もチラッと見た限りではまったくなかったのだ。その代わりにあったものといえば、国境まで続く川の辺からかなり上にある山腹を突っ切る幹線道路と、その沿道にある鳥居のような立派な門。沿道にはもちろん濁流はみえなかったのだ。もしかして名前は同じでもまったく違う村なのか。それとも何らかの縁があるのだろうか。
 勐巴拉はどうだろうか。リゾート地がある場所にかつて巴拉村があって、立ち退いた補償の代わりに村人が優先的に雇われているということはないのだろうか。だけど村で伝統的な生活をしてきた人たちが見本となるテーブルマナーを備えているとは思えない。それとも実はこのリゾート地の奥に今も村があったするのだろうか。
 ひとまず私たちは勐巴拉へと急いだ。もうそのときは夕方四時ごろ。時間が遅くなってきたということもあって焦りもあった。勐巴拉まではものの五分。入り口には実に立派なドラゴンの彫刻があって、その裏にはバンコクの世界遺産にもなった寺院のような建物がどーんと新しく鎮座している。龍の下には勐巴拉国际旅游度假区と書いてあって、なんだか結婚式場のようだった。


 入り口の警備員に事情を話して中に入っていく。すると芝が見事に揃えられたゴルフ場のような光景が眼に入ってきた。橋があって、その奥には小さな池がある。
 この湖は確かに水には違いない。だけどここは私が以前見た巴拉村の濁流の小川とはまるで違う。やっぱり奥に村があるのだろうか。そんなことを考えつつ、進んで確かめようとすると、すぐに警備の人に止められてしまった。

 もう一つの巴拉は勐巴拉から景洪方向へ一〇分ぐらい行ったところにあった。入り口には鳥居のような形をした門。鳥居よりも中国の牌楼の方が似ているかもしれない。柱が四本あって両脇の細い柱低い柱高さ三メートル以上ある。太くて高い柱があってその高い柱の上には山のような形をした棒が張り巡らされている。太い柱の両脇には腰巻だけの槍を持った男性、頭に布を巻いて籠を背負っている働き者の女性という像があった。その外側の細い小さな柱の脇には番犬の像が見えた。
 車がすれ違えない急坂を登っていく。その沿道には立派なコンクリート造りの家々が並んでいて、屋根の形は日本家屋のようだ。コンクリートで舗装された道の周りにはブーゲンビリアやその他広葉樹の熱帯的な木木が植わっていてトロピカル。もちろん電気も通っていて中にはパラボラアンテナが備わってる家もあってそこそこ文化的だった。家の庭にコンクリートの広場みたいのがところどころにあってどうやらお茶が干せるようになっているらしい。その一角には頭をスカーフかタオルかで覆っている色の黒いおばさんたちが井戸端会議か何かをしていて、我々の車が通りかかるとビックリしたような表情でこちらを見た。
 私たちはそのまま徐行しながらそこを通り過ぎた。そして五分ほど進むと、行き止まりとなった。道そのものはあるにはあったが、舗装されていない山道だったのだ。

「どうしますか。これ以上進みますか」
 嶋田くんが突きつけるように選択を迫ってくる。
 このとき私は頭の中で引っかかるものを抱えていた。というのも、急な坂といい道の幅といい、かつて私が訪れたハニ族の集落に似てなくもないが、とはいえ家がまったく違う。以前のような赤土の急坂の周りに、木造の高床式の家々という光景からはかけ離れている。

 コンクリートの庭にお茶が干せるようになっているのも以前とは違う。当時、ハニ族の人たちはお茶を作っていた認識は私にはない。当時、確か焼き畑農業を基本に豚や鶏肉を飼ったりする自給自足の生活だったはずだ。また、毎日ツアーなどでやってくる観光客相手に、民族衣装姿で、おばちゃんたちが、金属の鱗のようなものがいっぱい入った刺繍入りの帽子や鞄を売って現金収入を得ていた。だが、我々の車が入っていっても全然そうした人たちは出てこない。いたのは先ほどの井戸端会議中のおばさんたちだけなのだ。しかも入り口が川のそばではなかった。
 これはどういうことなのだろう。まさか村の入口がまったく違うものになるはずがない。とはいえ運転手は焦っている。これ以上時間はかけられない気もした。
「わ、わかった。じゃあもう戻ろう」とそう告げるのが精一杯だった。そう告げると運転手はほっとしたのか。バックして方向を転換すると登りよりも素早く、来た道を降りはじめた。「戻ろう」と話したことで私もほっとしたのか。「やっぱりここじゃないんだ」と自分に言い聞かせようとした。すると、井戸端会議中のおばさんたちが、折り返したとき、我々の車に気がついて何か言おうとしているではないか。しかし、私がストップをかける前に、運転手はずっと下へ行ってしまっていた。そしてそのまま入口まで出てしまった。
 すると運転手はここからどうするかを聞いてきた。
「このまま景洪方向まで行くか、勐海に引き返してバスに乗るかって言ってます。でも同じ車が検問の前で行ったり来たりしてるとマズいですよ。下手すると、怪しまれて写真を消されてしまうかも知れませんよ」
 そう言われ私は迷った。そしてここがやはり巴拉なのかを確かめるより、どちらへ行くか。その選択に気をとられてしまった。
「戻れないんだったら、進むしかないね」
 そしてそのまま結局は景洪の入口の空港口まで行ってもらった。

 そして、そこからは通りかかった別のタクシーに乗った。湖南省から一年前に来たという二〇代の漢民族の運転手。私たちが日本人だというと急に態度を変え黙り込んでしまった。
「この世代は反日教育をモロに受けているから、日本人だというだけでこの態度ですよ」
 我々は黙り込んで交通飯店まで行ってもらったのだった。
 宿の入り口まで戻ってきてフロントでカードキーをもらったとき、私は昨日も見た一日ツアーの日程表を見た。するとそこには先ほど見た南糯という地名が書いてあった。
 これを見て私ははっとした。この地名と巴拉、どう関係があるのだろう。このツアーではこの場所に行くということなのだろうか。それとも全然関係ない場所に行くのだろうか。そう思ってフロントの女性に聞いてみたが「知らない」という。
 このツアー用のデスクが待合所にあったので、嶋田くんに聞いてもらったが、「巴拉」というとリゾート地のことばかりで私が昔見た村のことは誰も知らなかった。どうあれ私は村の入り口がまったく違うこと、そして川がないことがやっぱり気になっていて、村は何らかの理由で立ち退きされたんじゃないか。もしくは私があそこで見た赤土の村というのは元々存在しなかったんじゃないかということすら思えてしまった。

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