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バックパッカーのたまり場の変貌[2018年/北京編その1/中国の高度成長を旅する#16]

バックパッカーのたまり場の変貌

 予定よりも三分早い二二時三三分、高速鉄道G18が北京南駅に停車した。
 改札を出たところで、立ち止まってスマホを操作し僑園飯店への道筋を確かめた。すると北の方向へ徒歩で約一五分の距離だということがわかった。駅の右手に確か川があったはず。その川沿いを西へ小道を歩いて行けばホテルに到着したと記憶している。おかしいなと思いつつ、その方向へ歩きはじめた。
 地下鉄の駅の改札前を通過したり、すでに閉店した店が多い食堂街の中を突っ切ったりして、歩いて行く。スーパー(超市)やお土産屋のほかに吉野家、蘭州牛肉面に和式のラーメン屋と日本にもありそうなテナントがちらほらある。
 そのまま五分以上歩いていくと、突き当たりに上り階段があらわれた。そこを登っていくと、一つ上の階はバスターミナルで、もう一つ上ると地上に出た。たちまち私は目を細めた。というのもLEDの白色灯が煌々と光っていて目に突き刺さってきたからだ。そのLED灯の背後には、赤いネオンで〝北京南站〟と記された、東京ドームのような建物が確認できた。

こちらは昼の写真


 二七年前、北京南駅で下車している。ただし、その外観は平屋か二階建ての、小さな小さなローカル線の駅だった。燕京号で天津新港に到着した後、李さん一家や友人のAと火車(列車)に乗って到着したのが同名の駅だったのだ。私が覚えている北京南駅は、ローカル線のようなゆったりとした雰囲気がありつつも、やたら人が多くて混雑している駅で、このように馬鹿でかくはなかった。本当に同じ駅だろうか。とてもそうは思えない。
 駅の建物とは反対側の進行方向には、オレンジ色の照明にぼんやり照らされた片側二~三車線の道路が見える。そこから百メートルほど向こうに、〝僑園飯店〟と簡略字で記された赤いネオンが確認できた。ネオンの手前は真っ暗で、すっぽり空き地になっているようだ。
 とはいえそこに道はなさそうなのでアプリが推奨する迂回路を行くことにした。それは、空き地の横にある建物をぐるっと西↓北↓東と回り込んで向かうルートだった。推奨ルートに沿って五階建てのショッピングビルを回り込んで歩いて行く。その建物が北京南駅と同様に敷地がゆったりととられていることに気がついた。手前の道路もそうだ。車道は数車線ずつあるし、自転車専用道路や歩道もしっかり設けられている。その割には誰も歩いておらず、車がちらほら走っているだけだ。
 このとき私が向かっていた僑園飯店が当時のまま残っていることは確信していた。ホテルを紹介するウェブサイトには八二年に創業したことが記してあったし、七月下旬にお会いした李さんから「僑園飯店は今も残っていますよ」という言質をもらっていたのだ。ちなみにその李さんさんからの返事は相変わらずなかった。「北京に着くのは九月一日です。数日滞在するのでそのときにまた会いましょう」などと何回かEメールを送ってはいたが、音沙汰なし。もしかすると私と会うことで迷惑を被りたくないとでも思っているのだろうか。そんなことが頭をもたげて、彼に電話することを中国到着後、果たせずにいた。

 駅前から歩いて一〇分ほどで僑園飯店の入口の前に来た。背丈以上はありそうな石造りの立派な狛犬が一対ある、遮断機で遮られた正門があり、その奥には一〇階建て前後の横に長い、古びたビルがゆったりとした中庭に二つ建っているのが見えた。中庭には噴水があり、その奥の建物の一階部分には車が横付けできるようになっている。その入口には簡略字で〝僑園〟と赤いネオンがあった。そのネオンはなんとなく見覚えがあった。それに本館と別館の位置も記憶通りだ。一方、私の背後、方角的には北側には立体交差があって、川らしきものは見当たらない。
 ホテルの周りにはひとけがなかった。無精髭を生やした西洋人、クスリにはまっている日本人、武器を買い付けに来たインド人軍団。「チェンジマネー」と誰彼関係なく話しかけてきたド派手な妻とその夫、買った電化製品を自慢して見せてくれた食堂の店主。あのころは、汚くてほこりっぽかったが、活気に満ちていた。改革開放政策によって、自由に金儲けができる喜びと意欲に満ちていた。しかしそんな人たちは、ホテルの周りにはもはやいない。それどころか敷地内を歩いている人すら誰もいないのだ。
 どうしてこんなに変わってしまったのだろうか。このホテル自体、経済発展の中どのようにして生き残ってきたのだろうか。
 そんなことを考えながら車寄せのある立派なエントランスから中へ入っていった。すると明るく照らされている、だだっ広いロビーが目の前に広がった。以前のような質素な雰囲気はまったくない。どちらかというとゴージャズだ。
 ロビーの奥にはフロントがあった。当時のことを知るはずがない二〇代なかばとおぼしき若いスタッフに、「ニーハオ」と挨拶して、プリントして持ってきていた予約確認書を見せる。すると、彼はぶっきらぼうに「パスポート」と言った。こうした対応は上海の安宿でも同じだ。私はまずパスポートを見せて支払いを済ませ、カードキーを受け取った。金額だがツインの部屋が二泊で八一六元。日本円で一万三〇五六円、一泊あたりだと六五二八円だ。『地球の歩き方中国91~92』には、ツインの部屋が二五~四〇元と記してある。当時のレートだと六五〇~一〇四〇円。むろんドミトリーだとさらに安い。ツイン同士で単純計算するとほぼ十倍もするが、金額の問題ではない。
 支払いを済ませると私はその若いスタッフに英語で切り出した。
「私はこのホテルに二六年ぶりに来たんです。可能なら古いスタッフに会って話を聞きたいです」
 そう言って私は当時、ホテルの周りで撮影したL版プリントをスタッフに渡した。すると彼は、何を思ったか私の許可を得ずにいきなり、なぜかスマホでその写真を撮影しはじめた。
 これにはあっけにとられた。だけどぐっとこらえて、自動翻訳機の助けを借りながら説明をした。当時からどのように変わってきたのか知りたいと。すると彼は「それは私が生まれた年ですね。でも、なぜですか。話を聞きたいという意味がわからない」と苦笑いしながら、英語で答えた。彼と話しても仕方ない。私は見切りをつけて、翌朝、出直すことにして、指定された部屋へ向かった。
 入口に近い別館の四階の部屋にカードキーを使って入った。部屋は入り口にガラス張りのシャワールームのあるツインの部屋で、大型の液晶テレビが机の上に載っていた。テレビの横には、箱に入った防毒マスクが置いてあった。PM2・5対策なのだろう。
 二〇一三年一月、中国は大気汚染問題が社会問題になった。それまでも大気汚染は蔓延していた。しかし、このときの汚染はすさまじく、工場が操業を停止したり、空港が閉鎖されたり。呼吸器疾患患者が続出、四割の人がマスクをして外出したという。日本でもPM2・5という言葉が話題になり、大気汚染が日本に影響を及ぼすんじゃないかということで、危機感を煽るような報道が相次いだ。
 だけど北京南駅からホテルまで歩いてきた感じだと空気の悪さは特に気にならなかった。大気汚染問題はある程度、解決したのだろうか。

二両連結バスとハイブリッドバス

 翌朝、本館にあるロビーへ向かった。到着すると六〇代前後の男女がすでにいた。二人とも、カメラベストにズボン、運動靴という動きやすい恰好をしている。男性は一八〇センチほどもある大柄で細身の体形で、映画『プラトーン』に出てくるウィレム・デフォーに似て、顔が長い精悍な雰囲気があった。
 話しかけようとすると、相手の方から話しかけてきた。「西牟田さんですよね。今日はよろしくお願いします」と。それが案内をお願いしていた大坂さんであった。大坂さんは三〇年前から日本と北京を往復している方。北京には一〇年ほど住んでいるという。
「公安に行きたいと書いてますね。日本で言う警察。あと城中村」
 大坂さんがそう話すので、私は込み入った事情について吐露した。
 夜行列車に乗り遅れ盲流の人たちとともに北京駅前で野宿したこと。彼らがどこに行ったのかを探るため城中村((出稼ぎのため都市に出てきた地方出身者(農民工)たちが住むスラム化した住宅街)へ行って話を聞いてみたいということ。九〇年代初頭に僑園飯店で勤めていた服務員と話をしたいということ。女性を叩いた事件の関係者に会って事情を聞いたり謝罪したりしたいということだ。
「なんだか厄介なオーダーばっかりで本当にすいません」
「いや、もちろんいいんですよ。是非やりましょう」
 大坂さんは鷹揚な態度で快諾してくれた。
「じゃあまずフロントに話聞きましょう」と大坂さんに促され一緒にフロントへ行く。すると、朝になって交代したらしく、フロントには三〇歳ぐらいの女性服務員ほか数人がいた。大坂さんが中国語でスタッフに声をかけた。すると女性服務員は言った。
「久々に再訪してくださって本当にありがとうございます。そして当ホテルの歴史に興味を持ってくださってありがたいです」
 昨日の服務員とは対応がまったく違っていて、少しほっとした。
 私は当時の名簿の有無について聞いた。というのも、九二年当時、私と一緒に北京駅を目指してバスに乗ったイギリス人バックパッカーの消息を知りたかったからだ。私がバスの中で後ろから羽交い締めにあっているのに、彼は私を見捨てて北京駅へと消えたのだ。もちろん助けようとして助けられるものではないし、恨みなどはもちろんない。だがあのとき彼がどのようなことを考えて一人北京駅へ向かったのか。そのことについては長年、ずっと聞いてみたいと思っていた。
 このホテルに当時の名簿が残っていれば、チェックアウトの日付と国籍から名前が特定できるはず。名前さえわかればSNSを通じて探し出せるに違いない。
 ところが女性服務員は申し訳なさそうに答えた。
「九二年当時は名簿がまだコンピューター化されていませんでした。紙の書類は三年で廃棄するというルールがあったので宿泊名簿は一切残っていません」
 ダメ元のお願いではあった。だから、そう期待はしていなかった。だがこれが唯一の手がかりなのだ。結論を突きつけられた私は、やっぱりそうかと落胆した。ないものは仕方がない。
 次に、当時働いていた四〇代後半以上の服務員が在籍しているかどうかを聞いてみた。
「マネージャーは当時のことをよく知っていると思います。朝の会議で話してみますね。それでは気をつけてご出発ください。このステッカーに住所が書いていますから、道に迷ったらタクシーの運転手に見せてください」
 そう言われ、住所が記されているステッカーを渡された。彼女の親身な態度に感謝の念を抱いた。「謝々」と礼を言ってホテルを後にした。

 正門を出て永定門街に出ると、すぐ近くに開陽橋東というバス停が見えた。私たちはそこでバスを待った。それは北京駅へ行く一二二番の汽車(バス)だった。
 数分待つと、その一二二番のバスが来た。やってきたバスのフロントにはFOTONという見慣れない名前のメーカーのロゴとエンブレムがフロントガラスの下に付いていた。
「これはハイブリッドのバスなんですよ」と大坂さんは言う。
 深刻化する大気汚染のひどさに北京市政府はけっこう思い切った対策を打っているようだ。二〇一七年に大気の正常化計画を発表、今後は排気ガスを発生しないクリーンエネルギーのバスにすべて置き換えていくという。僑園飯店の部屋に置かれていた防毒マスクはもはや使う機会はないのかも知れない。
 二人に続いてバスに乗り込む。バス代は二元。Suicaの要領で、入り口にあるセンサーにピッとタッチするか、現金を払うかして清算する方式のようだ。九二年当時のような切符売りの女の子たちはもちろんいない。シベリア鉄道に乗るために二両連結バスに乗ったときは、乗車率二〇〇%以上という混みようだった。だが今回は、地下鉄の普及が原因なのか、一両のみのバスなのに全員が座れるぐらいに空いていた。
 私たち乗客が着席したところでバスは静かに発車した。永定門街を東へバスは進む。天壇公園の南側を通過し、バイパスらしきものを通って北京駅へと向かっていった。そんな中、私が見たのはあちこちに建つ高層ビルだった。あちこちに残っていた古い街並みはもはや目立たない。再開発の名の下に、すさまじいスピードで新しい建物に置き換えられていった、ということらしい。
 大気汚染対策にしろ、再開発にしろ、すごいスピードで実施していくんだなあ。あと五年、一〇年たったらさらに変わってしまうんだろうか。私が九〇年代前半に見た風景は本当に存在したのか、半信半疑になってしまうのだろうなあ――。
 そのように時代の移り変わりの速さに思いをはせていると、私の頭に古い記憶の断片の数々が急にふっと思い出されてきた。
 それは、二両連結バスが天安門の前を通過するときの車窓風景であったり、切符売りの女の子に財布からお札を盗られそうになったときの怒りと焦りであったり、もみくちゃのはたき合いをしているときに感じた手や顔の痛みであったり、北京駅の前にバスが停車し降りようとして羽交い締めにされているときの落胆と焦りであったり、といったものであった。また、先にバスを降りたイギリス人旅行者のドア越しに見た心配そうな表情であったり、取調中に浮かべた切符売り女性たちの今にも泣き出しそうな表情であったり、といったものもあった。こうした記憶の断片は、この二六年間、睡眠中に夢に見たり、日中ふと思い出したりしてきたものばかりだ。
 中国を訪れる前までは、そうした記憶の断片が思い出されるごとに、なんであんなことをしたんだろうと悔いたり、反省の気持ちを抱いたりした。あのとき、もし切符売りの女の子におとなしくお金を渡していたら、当然シベリア鉄道に乗れていたはずだ。そうすれば無事に世界一周して帰国できただろう。そうなっていれば、地球一周の船旅に参加するために就職した会社を、一年も経たずに辞めることはなかった。それになにより、叩いた女の子には本当に悪いことをした。申し訳なかった……と。
 ところが北京行きのバス車中では、思い出し方が、今までとは違っていた。記憶の断片や当時の風景こそは思い出したし、叩いた女性への反省の情こそは強くした。しかし、悔いたり、別の人生を思い描いたりといった、ネガティブな感情はもはや湧いてこなかったのだ。

 目の前の風景は摩天楼ばかりだし目的地は同じでもルートは違っている。しかも乗っているバスは二両連結のバスではなくてハイブリッドバスだ。これまでは記憶の断片に必ずついて回ったネガティブな感情が、ほとんど別世界ともいえる未来的な北京の光景を目の当たりにすることで途端に薄れた――。どうもそんな気がした。

混雑していない北京駅

 四〇分ほどして北京駅のはずれにあるバス停に着いた。そこから数分歩くと、横にかなり長い五階建てほどの、見覚えのある形のビルが見えてきた。その両端と中ほどの左右、合計四本の五重の塔のようなものが建っている。北京駅の外観は一九九二年当時のままだ。
 この駅は中華人民共和国建国一〇周年となる一九五九年にたった七ヶ月で建設された。中華風と洋風のデザインをミックスした壮麗な建物は首都北京の玄関口として相応しいものであった。東西の幅は二一八メートル、中央部の高さは三四メートル、二つのタワーの高さは四三メートルある。九〇年代前半の時点だと、この駅は大変に巨大で、唯一無二の存在だった。しかし上海虹橋駅や北京南駅といった、北京駅を遙かに凌駕するスケールの大きな駅に比べると、今や見劣りしてしまう。
 出入りする人の数が多すぎるのか、北京駅の前には、歩道橋が架かっていた。私たちは道の反対側から、歩道橋を使って、北京駅へと歩いて行った。その途中、私は歩道橋の上から北京駅の駅前広場を見下ろしてみた。以前は広場全体が人混みで埋まっているような印象があった。確かに混み合ってはいるが歩くのに支障はないぐらいの混みようだ。これなら渋谷のスクランブル交差点の方が混んでいる。
 私が旅した九〇年代前半当時、北京駅の駅前はさながら難民キャンプだった。ツテがないまま地方からどっとやってきた人たちに埋め尽くされていた。彼らの持っているバッグは土嚢袋に毛の生えたようなものだったり縫製の悪いボストンバッグだったりした。当時はそうした地方から出てきた人たちは盲流と呼ばれ、北京駅前に吹き溜まっていた。今でいうところの農民工の人たちだ。

 そんな北京駅に飛び込んで、切符を買うという行為は、過酷を極めた。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の主人公カンダタが、頭上から伸びてきた蜘蛛の糸を摑んで、地獄からの脱出を図るも、彼の身体にしがみつく者が続出し、カンダタもろとも、地獄の地面に叩きつけられる。そのシーンさながらの光景が展開していた。
 ごく少数の切符を、もみくちゃになりながら取り合うのだ。窓口に辿り着いても、ほかの客の手が伸びてきたり、突き飛ばされたり。窓口の係員が対応してくれても、会話ではなく筆談だとわかった時点で面倒がられて無視されたり、しっかり調べもせずに「没有!(メイヨー)」と頭ごなしに怒鳴られたり。なんとか買えたとしてもお札をぽいっと投げられたりした。
 九一年当時、私は友人のAと一緒にこの駅に来て夜行列車に乗ろうとしたことがある。切符自体は入手できたが、人混みの中をもみくちゃにされて乗り過ごし、盲流の人たちと一緒に野宿するという経験をした。あの夜、私は〝装甲車〟にひかれそうになっている。というのも、駅前で寝ようとしている盲流を蹴散らしに公安の車がやってきのだ。

 そうした記憶が鮮烈なだけに、駅がすし詰めでない様子に拍子抜けした。あのときいた地方の人たちはどこにいったのだろうか。なぜ北京駅に集まらなくなったのだろうか。
「昔はインターネットがなかったでしょう。だからあてもなくとにかく北京までやってきてそこで仕事を斡旋する業者に声をかけられるのをひたすら待っていたのね。だけど簡単に仕事が見つかるわけでもないから駅で途方に暮れちゃってずっといたりしたわけ。だけど今はインターネットがあるでしょ。北京に出てきてから探さなくても行く前から仕事を見つけられるだから駅に人が泊まらないのよ。あと切符にしてもネット予約でとれちゃうしね」
 大坂さんの奥さんはやや中国語訛りで聞き取るのに少しコツが必要だったが、話している内容は非常に理路整然としていて大変頭の良い人だとお見受けした。それもそのはずだ。彼女は慶應義塾大学の理工系の学部で学んでいた経験があるらしいのだ。

 私たちは歩道橋を降りて駅前広場を歩いて行く。すると私が以前、装甲車と当時の日記に記した車がフェンスに囲まれて広場の端に止められていた。それはランドクルーザーに毛の生えたようなもの。窓は金網でガードされていて、フロントガラスは金網ガードが跳ね上げられていた。天井部分には座りながら機関銃を連射できそうな椅子が備え付けられていた。そうした部分以外は特に普通の車と変わりのないものであった。それ以外の違いといえば、〝特警〟と横にペイントされていることぐらいだ。

 駅へ向かう人と、出る人は一方通行。ほかに駅へと向かう人たちは、キャリーバッグというよりもさらに大きなスーツケースを持った人やリュックサックを背負った人が多い。以前のような半袖シャツで暑いのでお腹丸出し……といった恥ずかしい恰好をした人とか麻袋を背負った人とかというのはほとんど見当たらない。
 駅の一階部分にはケンタッキーフライドチキン、吉野家などの日本でもおなじみのフランチャイズチェーンが入っていたりして、以前のような難民キャンプ的な雰囲気からは程遠い。やや混雑はしているがその混雑の質というのは、どちらかと言うと東京ディズニーランドに二時間待ち、三時間待ちというものに近いだろう。
 切符売り場は向かって右側奥の入口にまとめられていた。X線検査を受けて、切符売り場のホールに入ってみた。すると売り場の窓口が約二五もあり、それぞれの列に一〇数人が並んでいる。並んでいる人の中には目鼻立ちの整った一〇人ほどの黒人グループがいた。私がかつて行ったことのあるエチオピアの人たちらしい。以前はたくさんいた外国人のバックパッカーは白人バックパッカーが一人か二人いるぐらいでほとんどいない。それ以外はそれ以外はキャリーバッグを持ったそこそこ身なりの整った二〇一八年の中国人たちだった。

 中国人民であれば身分証明カードだけあれば窓口に並ばなくても、自動券売機で発券できるこの時代になぜわざわざ窓口に彼らは並んでいるのだろうか。

 二〇代前半のスーツケースを持っている女性二人組は言う。
「身分証明カードはあります。だけど決済する銀行がなぜか承認されず、決済が不能なんです。だから窓口に並んで現金で切符を買ったんです」
 ボストンバッグに座りながら、両耳にヘッドフォンをしている男性がいた。歳は三〇ぐらいだろうか。途方に暮れている感じがした。
「黒竜江省の佳木斯(チャムス)から来ました。乗りたい便が北京駅からなのか北京西駅なのかわからないんです」
 悠々自適なお金をたくさん持っていそうな老人二人組は「スマートフォンやネットの使い方がわからないので切符を買いに行きました」と言った。
 とそれぞれ買いに来た理由はバラバラだった。ただ彼らはそれぞれ窓口で並ばざるを得ない理由をそれぞれ抱えていることがよくわかった。ネットで予約できない人というのはつまり身分証明カードが持てない人や電子決済ができない人、インターネットを使いこなせないお年寄りなどの弱者たち、後は貧しすぎたり、電波が届いていなかったりして、スマートフォンが買えない田舎の人たちも、並ばなくてはならないのだろう。
 そんなことを考えていたら目の前に土嚢袋を背負ったような風景の男が現れた。年の頃は三〇代~四〇代。中国を代表する映画監督になったチャンイーモウに似た坊主頭で、非常にみすぼらしい。戦後まもなく日本では着るもののない人が麻袋を身体に巻き付けて歩いていたそうだが、まさにそれに準ずるような恰好をしていた。または、私が九〇年代前半、一緒に野宿した地方の人たちかと思しき人たちだ。私はその方にインタビューしたかった。しかし大坂さんに止められた。
「彼は農民工です。こういった農民工は警察が監視しているからやめといたほうがいいですよ」
 そう言われて周りを見渡すと気づかなかった視線が突き刺さってくるのを感じたのだった。

 切符売り場のホールの端には相談窓口があってそこに制服を着た五〇代の男性が若い女性職員に混じってときどき対応していた。彼が手を開くのを待って話を聞いてみた。
「そうですか。二六年前に来られたんですか。私は三〇数年勤務していますから、その頃にはこの駅で切符を売っていました。おっしゃる通り、切符売り場はすごく混雑していました。私たち駅員は、朝、窓口に入ったら勤務が終わる夜まで窓口に座りっぱなしでした。そうやってどんどんさばいていかないと間に合わなかったんです。それが九六年、北京西駅ができて人の流れが分散されました。さらに二〇〇八年には北京南駅が高鉄の始発駅として再出発したことで、さらに分散されました」
 中国各地からの列車が到着、発車する北京駅。かつてはありとあらゆる長距離列車がこの駅に集中していた。一九五九年に開業したときの利用者数は年間六〇〇万人だった。しかし改革開放が始まった当時は一五〇〇万人、そしてピークの時期には三〇〇〇万人と利用者数は膨れ上がった。しかし北京西駅と北京南駅に、利用者数が分散した。例えば二〇一六年~一七年の年末年始の三連休の利用者数は北京駅が七二・四万人、北京西駅が一〇一・三万人、北京南駅が八七・二万人(中国网日文版 二〇一七年一月四日)と三駅の中ではもっとも利用者が少なくなった。現在この駅から発着しているのは、遼寧省、吉林省、黒竜江省といった旧満州方面行きの便を主とする国内列車と平壌(ピョンヤン)やウランバートル、モスクワといった方面へ向かう国際列車だという。
「コンピューターで管理されるようになったり、二〇一三年には実名制度になったことで、さらに混雑は緩和されました。これによって、以前のようにダフ屋がたくさん切符を買い占めて悪用するということができなくなりましたからね。今やネットで予約するのが普通です。混雑はかなりなくなりました。それでも春節のときはかなり混みますよ」
 ベテラン職員は事務的に対応してくれていたが、当時の大混雑ぶりについては少し懐かしそうにして話してくれたのだった。それを聞き、私は当時、彼ら駅員はなぜこんなに態度がぞんざいなのかと頭にきていたが、彼らは彼らなりに大変な殺人的な業務を毎日毎日必死になってこなしてきたということがよくわかった。

出稼ぎ労働者たちの明暗

 駅舎を出て駅前広場を歩いていると、先ほど見かけた人と同じく、薄汚れた恰好をした農民工の人たちが所在なげに座り込んでいるのが眼に入った。だいたいは三〇~四〇代の男性ひとり。こうした人たちは、スマホを持つこともできず、行き当たりばったりで北京にやってきたのだろうか。話しかけたい気がしたが、大坂さんが警戒しているし、どこから監視されているのかわからないので、やめておいた。
 そんな大坂さんだったが、目の前に鉄道警察の交番が眼に入ると、態度が一変した。交番前に立っている制服姿の男女二人組がいるのに気がつくと、すかさず声をかけたのだ。
「北京駅の東の方向へバスで一〇分か一五分行ったところに警察署はありますか」
「私たちは鉄道警察なので詳しくはないです」
 まだ二〇代とおぼしき女性警官が答えた。いかにも真面目そうな文系女子という風貌だ。
「警察署の横には永定門という名前のバスの車庫がありました」
「永定門だと東ではなくて南西方向。北京南駅の側ですよ」
 すると今度は四〇代とおぼしき先輩警官が答えた。
「私たちはそこから来たんですよ」
「近距離のバスといえばそこだと思います」
 大坂さんは私が取り調べを受けた警察署の場所を確かめるべく、道を聞いてくれたのだ。先ほど見かけた〝特警〟のランドクルーザー、その威圧感が半端なかった。なので、親身になって道案内をしてくれる警官たちの姿に拍子抜けした。
 二人が聞いてくれたのは、かつて私が事情聴取を受けた公安局(警察署)の場所を確定させるため。永定門ならば、警察官が言うとおり、北京南駅の一帯なのだ。だとすればホテルに戻る直前に行けばいい。そう思い、まずは別の場所を先に訪れることにした。

 昼食後に向かったのは農民工たちが多く住む貧民街、城中村だった。九一年に北京駅で私が野宿したときに一緒にいた地方出身者の人たちは、なぜ北京へやってきて、どこへ行ったのか。その手がかりを知りたかったのだ。とはいえ当時、誰からも名前も住所も聞いていない。そこで彼らのような人たちがその後、住みついたエリアを探しているうちに城中村というものが北京や上海、広州や深圳といった大都市に存在することを知った。
 そもそも彼ら地方出身者、当時の盲流たちがなぜ北京にやってきのたのか。その謎を解く鍵は、非常に差別的な中国の戸籍制度にあるということに気がつく。以下説明してみよう。
 中国には都市戸籍と農村戸籍という二種類の戸籍がある。前者は約四割で後者は約六割。この戸籍制度は一九五八年に作られた。都市住民が手厚い社会保障を受ける一方、農村住民は保障のない状態を強いられ、自給自足を強いられた。その上、農村住民は移動を厳しく制限された。というのも、全人口のうち多数の割合を占める農村在住者がどっと都市へ流れ込めば、都市生活者の社会保障制度が破綻してしまう上に、食料の供給がうまく行かなくなると政府が考えたからだ。
 改革開放が始まった一九七八年以降、都市の労働力不足を補うため、農村戸籍を持つ人たちの移動制限は段々と緩和されていった。一九九一年に私が北京駅で一緒に野宿した、当時、盲流と呼ばれた人たちは、農村戸籍のまま、都市へやってきた人たち、つまり農民工たちだったのだ。
 彼ら農民工は、都市へ移住しても戸籍はそのままだ。使い捨ての労働力として劣悪な環境で働くことが多く、なかなか貧困から抜け出せない。たとえ子どもが都市で生まれても、その子は農村戸籍のまま。例えば同じ北京で生まれても、戸籍が違えば政府から受けられる社会保障がまったく違うのだ。農民工として生まれた子どもは農民工のままなのだ。そうした人たちの数は中国全土で、三億人にも達するというのだ。私が向かった城中村とはそうした貧しい農民工が住む、都市の中にあるスラムのことだ。

 その村は北京駅からほど近く、直線で三キロの距離にあった。バスを乗り継いで村の北側にやってくると、手前には五階建てぐらいの団地があり、その南側の奥にはがくっと低まった貧相な一帯があった。それが化石营村であった。このあたりの建物はだいたい一九五〇年代に建てられたもの。世帯の数は約八五〇だという。
 ところどころ瓦が欠けている平屋建ての老朽家屋が約百メートルあるメインストリートの両側に立ち並び、その突き当たりのごちゃごちゃした一帯の奥には対照的に高層ビルがいくつも林立している。向かって左の東側には五二階建てという北京有数の高層マンション京広中心が建っていて、進行方向とは逆の北側には三一階建ての复星国际中心がバス通りの反対側に建っている。ビルに囲まれているこの村はまるで井戸の底のようだ。それもそのはず。村の周囲は北京商務中心(北京CBD)という九〇年代以降に開発された新都心。世界に知られている大企業で北京に事務所を構えている企業の大半はこの一帯に拠点を置いているという。

 村の入口には警察の詰所があり、頑丈そうな鉄の門扉が備え付けられていた。何か不測の事態が起こると、建物上部に取りつけられた非常ランプがぐるぐる回り、門扉を閉じてしまうのだろうか。その門扉の手前には、なぜかピカピカのスーパーカーが停められている。その車から四〇代と思しき男性が降りてきたので話しかけてみた。彼は、ポロシャツにスラックスというゴルフでもやっていそうなバブル紳士という感じの出で立ちだ。
「ここは化石营村なんですか」
「そうだよ。実は僕もここに部屋を借りてるんだよ。セカンドハウスだけどね。二〇数年前に湖南省からやってきて、はじめの頃はここに部屋を借りて、住んでいました。車のナンバーをただ同然で手に入れて、それを転売するんだよ。その商売でけっこうお金が貯まったからね。今は別の場所に家を買って、そこに住んでるんだよ」
 どうやら彼は地方からここに移り住み、北京で成功し富を得た勝ち組らしい。話しかけただけなのに、自分の歩んできた人生に誇りを持っているのか、警戒することなく、自分の身の上を話してくれた。もしかすると、私が北京駅で野宿したころにきたのかも知れない。セカンドハウスとはいうが、ご自身の原点を忘れないようにと借りているのだろうか。
「ここの借り賃? 一月で一二〇〇元かな。部屋は一〇平米ぐらいかな。もっと安いのだと二段ベッドのベッド一人分から借りられる。これだと一月あたり四〇〇元もあれば足りるよ」
 それぞれ日本円で一九二〇〇円、六四〇〇円である。一日当たりだとそれぞれ六四〇円、二一三円。九〇年代前半の安宿に比べれば高いが、物価が一〇倍になったと考えればかなり安い。このぐらいの値段ならば、地方から出てきた人も安心して泊まれるのも知れない。

 私たちはゲートを抜けて、一〇〇メートルほどある村のメインストリートを歩いてみた。その道の両側にあるのはどれもが非常に古くて狭い、平屋建ての建物だ。瓦がところとごろ剥がれていたり、軒がギザギザになっていたり。または崩れた壁をベニヤで塞いでいたりした。それらの建物は、民家だったり店になっていたりしてボロくはあるが賑々しい。
 路上には、椅子をはりだしておじさんやお婆さんが座っていたり、荷台がガラス張りになった食べ物用屋台があちこちに放置されている。頭上には電線が並行して幾重にもたわんでいる。雨の日、さらに垂れ下がって感電したりしないのだろうか。
 路上に特殊なミシンを出して靴を補修したかと思えば、合鍵を作ったりしているのは、詰め所わきで露店をしている合い鍵・靴の修理職人。キオスクのように店員に声をかけ、品物を出してもらう形式の服屋。麺は一杯で一二元、お粥が二元と異様に安いテーブルがひとつだけの食堂。そのほか建具屋であったり、八百屋であったり。または、見たことがない怪しげなキャリアの製品しか売っていない携帯電話屋があったり、雑貨屋があったりした。ざっと値段を聞いてみる限り、価格はかなり安い。ここに住んでいれば生活に必要なものが非常に安い値段で揃うようだ。こうした店にもQRコードのプレートが置かれていて、電子決済で支払うことが当たり前となっていた。
 平屋の奥には五〇センチぐらいの幅の路地があった。建物それぞれがすごく狭く、ほとんど寝るだけしかできないのか。トイレの取っ手が付いたタワシが立てかけてあったり、たらいが流しの上に置かれていたり、ゴミ箱が外に置かれていたりする。洗濯物は窓の外に針金をかけてそこからいくつもハンガーを掛けて干していたり、路地を遮るように貼り出して干していたりする。電気は通っているようで蜘蛛の巣のように頭上で絡まっていたり、クーラーの室外機がたくさん置かれていたりもする。これだけ狭いのだから水浴びは路地でやるのだろう。また炊事やおまるを出してのトイレもここでやるのかも知れない。
 突き当たった車道は左へと続いていた。回収しないのか、それとも廃品回収したものをまとめているのかゴミが積み重なっている。パラソルの下に床屋の椅子が置かれている路上床屋や店舗式の美容院、携帯電話の修理屋、発泡スチロールにマジック書きされた「平屋貸します」と中国語と携帯電話の番号が記されたミニ広告があったりした。このあたりにもこんがらがった電線が垂れ下がっているし、狭い住宅に入りきらない家財道具が路上に散乱していたりする。路地にはガラスがなぜか五枚ほど横に倒して置かれていたり、ドアが置かれていたりもした。こうした路地に漏電したり、電気がショートして発火したりしたら、これだけ密集していると火の周りは早いはずて寝るだけで危なっかしい気がした。
 数十メートル進むと進行方向には五二階建ての高層ビルが、離れているのに通せんぼするように立ちはだかった。車道は右へ分かれていて、その一〇〇メートルほど先には、数車線ずつのレーンがある車どおりの激しい幹線道路が見えた。中央分離帯には木々が植えられていて、道路の向こうにはやはり高層ビルが並んでいるのが見えた。
 このように化石营村は四方八方を北京の新都心、北京CBDによって包囲されているのだった。歩いて道を渡れば国を代表する先進的な一帯がある。そのことは一目瞭然だ。しかし、このスラムと隣り合って存在しているということがどうも信じられなかった。

 路地の端の車道に面するところに、上半身裸のにこやかな老人がいた。身体が真っ赤に日焼けしていて、ホームレスが住みついているのかと一瞬思ったが、路地のすぐ奥の家に住んでいるらしい。私が一眼デジカメをホールドし、向けると穏やかな笑顔を見せた。
「先祖が一二〇年前に住み着きました。その先祖から代々受け継いで住んできたんです。この家自体はワシが建てたんじゃ」
 案内板にはこの村の建物は一九五〇年代に建てられたと記してあったが、まさにそうしたときに建てたのだろう。
「昔は池の草を取る掃除の仕事をしてたな。六〇歳のときに定年になってからは食べて寝る。それだけの生活じゃな。今は八四歳じゃ」
 若いときから今までどのような生活を送ってきたのか。文革の頃はどうだったのか。
「ワシみたいに底辺の奴にはそんな時代の変化は関係がないよ。主人のもとで淡々と働いてるだけじゃ。改革開放の恩恵? 成功した人たちが上なら、わしは一番下だな、底辺じゃ」
 そう言って顔をくしゃくしゃにして笑った。彼はどんなに時代がかわっても淡々と生きているような方であった。
 次に話しかけたのは八〇代とおぼしき、花柄のスパッツをはき、座り込んでいるおばあさん。しかし取材拒否。あからさまに警戒されているようで、私たちが歩いて行くのを杖をつきながら、ゆっくりと追いかけてきた。しかし、こちらが視線を送ると明後日の方向を向いたのだった。
 そのほか何人かに話を聞いてみた。さきほどガラスを路地に五枚横倒しにして置いていた男性は四八歳。江蘇省の出身だという。しかし、それ以外は何を尋ねても無言のまま。そのうち、「答えたくないから、あっちへ行ってくれ」と言われてしまった。
 八百屋に美容院、よろず屋。三〇代~五〇代と思しき人たちに話を聞くと、すべてが毛沢東の出身地である湖南省の出身だった。ここに暮らしはじめて、もうずいぶん経つという話しぶりの人もいた。彼らの話を総合すると、地方から北京にチャンスを求めてやってきたらしい。もちろん戸籍は農民戸籍。都市戸籍の人たち同様の社会保障を受けるチャンスはない中、ビルに囲まれたこの地で同郷の人たちと身を寄せ合うようにして、彼らは暮らしているのだ。
 中国は社会主義国ではあるが、「富める者から先に富め」という鄧小平の言葉どおり、経済的には飛躍的に豊かになった。しかし、豊かになればなるほど、経済的な格差が恐ろしく開くようになった。私が出向いた化石营村と北京CBDの対比はそうした開ききってしまったこの国の貧富の差の象徴ともいえる場所であった。
 この地は一九九一年から解体される計画があり、村の一部はとっくに解体され駐車場になっていた。この場所から人々を立ち退かせれば、たちまちビルが建ち、土地の値段は跳ね上がるだろう。だが、この村の人たちもしたたかだ。
「石畳みが敷かれている道路は昨年までは舗装されていなくてね。雨が降れば泥だらけになったんですよ。だけど、そうした状況が報道されてからはね、政府は慌てて、このとおり舗装してくれたんだよ」
 そのように、ある村人は誇るようにして話してくれた。戸籍が差別され、貧困を抜け出せなくても、今後、彼らはしたたかに生きて行く。私はそのことを確信した。


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