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自由を守る砦 [2018年/香港編/中国の高度成長を旅する#30]

深圳に抜かれた香港 香港

 夕方になって私は羅湖駅から香港へと向かうことにした。以前は深圳駅だったのに羅湖駅という名前に変わっていた。


 一九九二年当時、私は深圳駅(現在の羅湖駅)からバスに乗って香港を目指した。一方で九七年は鉄道で香港へと戻っていった。九二年と同じルートをたどるのがこの旅のコンセプト。しかし私は勘違いして、九七年のときと同様に鉄道で移動してしまった。当時は中国に返還される前だったので、深圳と香港の間には、中国とイギリスの国境があった。
 その年の七月に香港が中国に返還されたのだから、今回、フリーパスになるかというとそんなことはなく、羅湖は羅湖口岸と呼ばれ(口岸とは中国語で国境のこと)、国境審査が相変わらず存在した。というのも返還時の約束として、鄧小平は「一国二制度」を明言した。つまり香港の体制は民主主義・市場経済体制のまま返還され、少なくとも五〇年間その体制を続けるということだった。一九九七年にイギリス人のパッテン総督が退いた後も、民主主義で資本主義という体制はそのまま。通貨は中国元ではなく香港ドルがそのまま使われることになったのだ。
 羅湖駅の建物に入り、エスカレーターや階段を何度も上り下りして、出国審査。パスポートをを見せて香港側に出た。中国人とそれ以外の外国人は審査が別。中国人の審査場は人で埋まっているが、下の階の外国人用の審査場は数えるほどしかいなかった。この国境を毎日通勤のために通過する人もいるのだろう。とすると職場が深圳で、家は香港という人もいるはずだ。
 記入していた出国カードを渡してやっと出国。X線の検査も受け、それが終わると、三〇キロほどの荷物を背負ったまま、数百メートルだらだらと歩いて行った。香港と深圳の間には深圳河があり、その橋の上を歩いて行った。その橋はすごく長くて百メートル以上はあっただろうか。その当たりには以外と自然が残っていて、山が見えた。

 香港側で入国するが、特に何の問題もない。香港の入国スタンプをパスポートに押してもらうと私は安全地帯に来たという安心感を持った。と同時に中国に香港が返還されたという感じがしなかった。地下鉄に乗って深圳の羅湖駅の改札を出て、中国を出国して、香港へ入国して、香港側の電車に乗るまでに三五分かかっていた。香港側の羅湖駅でカード型の切符を購入したのだが、券売機の周りには中国側の企業の広告が貼ってあって文字が繁字体になったこと、そして会話が広東語に戻ったこと以外、経済レベルがぐっと上がったということは感じない。むしろ香港に入って、駅の壁や階段などが深圳に比べて古びている気がした。

 香港側の鉄道は車両こそ新しめだった。しかし駅にはホームドアはなく、乗換のためにホームを歩いた駅のトイレは、新しい駅ばかりでトイレもきれいな深圳の駅に比べると、おばけがでそうなほど汚かった。乗客の年齢層は一気に上がった。二〇代中心だった深圳に比べ、香港は平均で五〇歳以上。深圳ではほとんどいなかった七〇代以上の人ちらほらいた。


 羅湖駅から小一時間かけて九龍半島を南下、香港島の海峡に程近い尖東駅に到着した。そこから外に出ると、深圳と風景が明らかに違っていた。深圳であちこちに目立った監視カメラは一切ない。日焼けしたやたら開放的な白人の熟年カップルが闊歩している。華やかな欧米のファッション広告が目立つが建物はぼろい。見上げると、築半世紀は超えたんじゃないかというビルばかりだったのだ。


 一〇分ほど歩いて尖沙咀にある重慶大廈に辿り着く。このビルは建て増しに建て増しを重ねた複雑な構造のビル。しかもグラウンドフロアがあってその上が一階となっているイギリス式なので余計ややこしい。基本は建て増しして作ったビルなので三階以上は横移動ができない。作られてから六〇年近くの歳月が経っているため老朽化しており、ビルの狭間にある日が差しにくい中庭側は魔窟という雰囲気にぴったりだ。怪しいのは建物だけではない。グランドフロアには両替屋や雑誌などの屋台が店を出していたり、アフリカやインド方面など明らかに人種の違う人たちがたむろしていたりする。入口から奥に進むと、甘々のインドのスイーツがあったり、ナイジェリアやフィリピン料理の小さな食堂があったりして、それまでの中国旅では皆無の各国料理がいろいろと食べられる。

 この建物にはドミトリーの安宿やベッドで部屋が埋まっている極小ホテルなどが多数入っている。私はその一つである安宿に予約を入れていた。以前は予約を取らなかった宿も、大陸から来る中国人旅行客が激増したからなのか、はっきりしたことはわからないがオンライン予約ができるようになったのだ。奇数回と偶数回で分けられているエレベーターのうち奇数回用のエレベーターに乗り、ぎゅうぎゅう詰めになりながらも、宿のある三階へ直行した。

 受付でチェックインを済ませてカードキーをもらう。一番奥の部屋へ行こうとタイル張りの真っ暗な廊下を通る。すると人を踏みそうになる。インド系の若者が廊下にマットレスを敷いてなぜか寝そべっていたのだ。カードキーをかざし、ドアを開けて部屋に入ると六畳の部屋に二段ベッド四つに空いたスペースに折りたたみ式の簡易ベッドという狭さだった。


 部屋には年齢こそ二、三〇代と若いが「バンコクはどうだった」「インドは飯がうまい」とかそういったたわいのない旅行者トークに話を咲かせるバックパッカーが集っていた。ただし彼らは中国国内の話はしなかった。以前のように何ヶ月もの間、バックパッカーとして旅行するには、中国の物価が高くなりすぎたのだろう。ビザも以前のように半年などという長期間は出ない。
 私は唯一空いている折りたたみ式ベッドの傍らに荷物を置いた後、そのベッドに腰掛けた。目の前の下段ベッドに腰掛けている二〇代半ばといった感じのアジア系の女性に「私はマレーシアから来たの。どこから来たの」と英語で聞かれたので、「日本。二六年ぶりに中国各地を訪ねた」と英語で返し数枚写真を見せた。すると興味がないのか、目を通すと「変わったことをしてるのね」と突っ返してきた。


 彼らと話すことをやめて私はグランドフロアまで降りた。そして食事をすることにした。ここ重慶大廈は九二年以来、五、六回来ているので、このビルの複雑な構造はすでに慣れっこだ。私はパキスタンのマトンカレーを食べる。六人か八人入れば満員になる小さな食堂だ。料理は辛いが美味。いつもやっているように料理の写真を撮ると、ぎょろっとした目で外の客が一瞥してきた。このときは大丈夫だったが、撮影には気をつけなければならない。というのも次の日の夜、ナイジェリア料理を食べたとき、料理を取るついでに、店の外の廊下の席で食べているナイジェリア人らしき男たちをノーファインダーでスナップすると、彼らは後ろくらいモノがあるのか、そのうち一人が「勝手に撮ったな! カメラを見せろ!」といって血相を変えてカメラを奪い取ろうとしてきた。一八五センチほどもあるいかつい男性だ。彼は私に「どれだ、すべて消せ!」と凄みながら言ってきた。私は当該カットをすべて消した。すると男はしかめた表情を崩さないままで「OK」と言い元の席に座った。消した後、私は思った。「勝手に撮って悪かった。だけどこの反応はなんだろう。不法滞在? それともヤバいことに身を染めてるのかもしれないなあ」と。ナイジェリア人の人たちは香港にいることに、どうも後ろくらいものがあるようだ。しかし詮索はできる雰囲気はなかった。


 話を戻そう。私はパキスタンカレーを食べた後、そとをふらりと歩いた。重慶大廈の脇の路地には雑誌の屋台があり、そこにはエロ本や共産党を批判する雑誌がおおっぴらに売られていた。一九九二年、一九九七年当時、屋台に必ず売られていた『香港97』というノーカットのエロ本は廃刊になっているようで見当たらなかった。しかししぶとくエロ本は残っていた。共産党批判の雑誌や新聞はもちろんエロ本ですら中国本土には見当たらない。それだけに言論の自由がある場所に来たんだと、実感し、少し安堵した。しかしその変わらなさは、建物が更新されず老朽化しているという点でも共通していた。九七年以来の深圳がすさまじく変わったこともあって、この香港の変わらなさは、まるで一昨日振りに来たかと錯覚してしまいそうなほどであった。強いていえば、私も含め、香港のというが都市自体が老朽化したという点が唯一変化かも知れない。香港も私も年をとったのだ。
 九二年に初めて香港にやってきたとき、私は安堵した。それは物質的な豊かさゆえの安心、同じ資本主義体制だからこそ故の安心という二つの安心があったからだ。街中にあるポルノショップの開けっぴろげさを目にし、まるで出所した後の服役囚のような解放感を覚えたのだ。
 今回はその点、解放感がない訳ではなかった。香港のSIMカードを使っていたため、グーグルマップやFACEBOOKは中国国内でも一応は使えた。しかしときおり不調となり、使えなくなることもしばしばだったのだ。しかし香港ではそうしたことに煩わされることはない。検閲されているんじゃないかという心配ももはや薄いだろう。それに街中に監視カメラはなくなった。何が言いたいのかと言えば、無意識に気を張っていることで受けていた心理的なプレッシャーから解放されたことが心地よかったのだ。しかし街の老朽化はひどい。九七年時点では物質面やインフラ面において、香港は先進国で、深圳は途上国だったが老朽化した分、香港の方がそれらの面において、深圳よりも劣るようになったような気がした。香港は世界有数の金融センターであるにもかかわらずだ。

 思えば香港という都市は不思議な場所だ。その不思議さを証明するために少し、近代における歴史的な経緯を紐解いてみよう。
 その歴史は一八四〇年に勃発したアヘン戦争から始まっている。清国はイギリスに敗北し、香港島とその対岸の九龍半島が割譲された。それよりも大陸側の山岳地帯、新界は九九年の租借ということでイギリスと中国は約束した。以後、それらの地域はイギリス連邦の一部として発展していった。まだ共産化していなかったため、大陸との交易は盛んに行われた。
 一九四九年に中華人民共和国が成立すると、大陸と香港の交易は途絶えた。社会主義化を嫌う人びとが香港へ殺到した。その結果、一九六〇年代初頭までの間に人口は一〇〇万人から三〇〇万人へと激増した。移住してきた人の中には製造業や商業、金融などを生業とする経営者等も多数おりそうした人たちの持っている経営ノウハウや資金力生産システムといったものや激増した人口によって安い労働力が供給された。そうして軽工業が発展していった。一九八〇年代に入るころには製造業がGDPの四分の一をしめたほどだった。
 しかしそれ以後、香港の工場は改革開放政策がとられるようになった大陸へと進出していく。というのも山がちで平地が非常に少なく人口密度の非常に高い香港では賃金や土地の価格の上昇という問題もあってそれ以上の成長が見込めなかったからだ。八〇年代以降、香港は金融や物流の分野に特化する。中国大陸と諸外国との投資や貿易の橋渡しの場所としても機能するようになった。中国と香港は互いを支え合い、依存するようになったのだ。
 中国が高度成長を遂げている最中の一九九七年七月、香港は新界だけでなく、九龍半島や香港島もふくめて返還される。香港そのものは一国二制度という現状が維持された。というのも、経済力の高い香港を社会主義の体制に従わせ、その結果、経済力が低下してしまったら元も子もないからだ。
 しかしだ。中国が高度経済成長を続ける中で、関係性は徐々に変わっていった。大陸が改革開放政策を続ける中、経済力をつけていくと香港の重要性が相対的に落ちてきたからだ。そして二〇一七年にはGDP面において、深圳と香港が逆転するという事態に至った。
 国内総生産や人口を比較すると逆転振りがよくわかる。深圳は三一・四一万人(一九七九年)、二六八・〇二万人(一九九二年)、五二七・七五万人(一九九七年)、一二五三万人(二〇一七年)となっている。またGDPは一・九億元(一九七九年)、三一七億元(一九九二年)、一二九七億元(一九九七年)、二兆二四三八億三九〇〇万元(二〇一七年)でその経済規模は四〇年足らずで約一・二万倍になった。
 一方、香港はどうだろう。四九二・九七万人(一九七九年)、五八五・〇五万人(一九九二年)、六四八・九三万人(一九九七年)、七四〇・一九万人(二〇一七年)。九〇年代のうちに人口面で抜かれ今や深圳が倍近くにまで増えてしまった。またGDPは一一一七億元(一九七九年)、七九一三億元(一九九二年)、一兆三四四五億元(一九九七年)、二兆一五二九億五五〇〇万元(二〇一七年)。経済規模は約一九倍となったが、深圳に抜かれてしまった。

大陸に呑まれゆく香港

 時代の変わり目の中で、香港に住む人たちは何を考えているのだろうか。返還されたことでの変化はあったのか。到着翌日、香港在住のべ三五年になる日本人、ひでさん(仮名)に話を伺ってみた。一九七九年、ひでさんは日本の貿易会社の香港支店に赴任した翌八〇年に独立、現在はときどき通訳やガイドをしているという。
「バブルがはじける前まで一〇年ほど、イタリアから服を輸入して香港で販売したり、日本や韓国に輸出していました。当時はずいぶん儲けさせてもらいました。
 私が暮らし始めた頃、香港にも工場がたくさんあったんですが、八〇年代から九〇年代にかけて広州や深圳に工場が移転していきました。それ以来、香港は金融と物流の街に変わっていきました。九〇年に入ると、移民していく人が多かったですね。もともと共産党政権が嫌で大陸各地から香港にやって来た人たちなので、香港が返還され、中国化されていくことが耐えられなかったんですね。特に返還の前年の九六年にはイギリスのほかにカナダ、オーストラリア、ニュージーランドといったイギリス連邦の国々へ移り住んで行きました。ところが、しばらくすると、ほとんどの若い人が香港に戻ってきたんです。というのも、それらの国は香港に比べて、若い人たちの意欲を満たす多種多様なビジネス機会が少なかったからです。
 返還されることに私も不安を感じていました。日本人だということで追い出されるんじゃないかって。だけど私には行くところがありませんでしたからね。そのまま留まることになりました。
 返還式典は一九九七年七月に行われました。チャールズ皇太子がやってきたんですが、その日は大雨で、「イギリスの流した涙雨」だと言われましたね。香港銀行やキャセイ航空がイギリスに本社が移るというし、どうなっちゃうのかと思いました。
 九七年までは政治や警察はすべてイギリスだったんですが、政治は中国、そして治安維持は人民解放軍ですからね。香港のトップは、返還後、香港人なんですが、ここ一〇年は中国の意向に従う人しか立候補できなくなってしまいました。選挙は一応あるのですが、親中国派がトップを握るような形にもなってしまっています。
 そうした行動に特に敏感なのは香港の若者です。今後香港が中国化されるんじゃないかと怯えてます。そうしたことから、二〇一四年に雨傘革命というものが起こりました。中国みたいにひどくはないですけど首謀者の学生たちは数日間留置所に入れられました。イギリス時代はこうしたことは別に自由だったんですけど。
 私自身はあくまで外国人だから政治が変化することで何かが影響されることはありません。しかし共産党に批判的なことを書いていた雑誌の出版社の人が逮捕されるというニュースも聞きますしね。そうしたことを聞いて怖いなあと思いました。一方、チャンスを求めて大陸に行く人もいるようです。
 返還後、大陸から移住した中国人がずいぶん増えました。返還以前はほぼ皆無だったのに、今ではトータル七〇万人くらいいます。それもあって土地の値段が上がってきてます。例えば三〇階建てのマンションが軒並み完売したりします。中国人の金持ちが不動産を爆買いしてるんです。爆買いといえば、大陸からやってきてスーパーでオムツを買い占めて行ったりもします。別に中国人のためにたくさん仕入れているわけではない。なので日用品を爆買いされるとたちまち売り切れてしまいます。一九七〇年代のように香港に製造する工場はありません。だから今は買い占められると売り切れてしまうだけです。イギリスが統治した頃は緑が多かったんですが、返還後、ゴルフ場を潰して住宅地にすると中国側が言ってきました 
 あと彼らがやってきたことで交通ルールが守られなくなりました。例えば車が一時停止を以前はしっかり守っていたのが、今はもう守らないのが普通になりました。
 教育も変わりました。返還前ならば中学の五年終わった時点で英語を喋れるのが当たり前でした。ところが今は中学校五年を出ても英語は喋れません。というのも英語の授業が減ってきたからです。その一方で北京語は習ったり聞いたりする機会が増えましたが、どこでも使えるというほどでもない。
 香港人からしたら「私たちは中国人ではない」という意識があり、英語で考え話すことで培っていた落ち着きが態度としてありました。英語で話しているとイギリスのマナーで考えますからソフトで婉曲的だったんです。しかし、言葉が中国語に変わってきたり、日常的に彼らと接することで、物言いがよりストレートになってきました。考え方は言葉によって影響を受けるわけですね。香港人が本来持っていた人間性や民族としての資質といったものが、大陸の人たちと日常的に接することで覚醒しつつある。それは本来の中国人に戻ってきたといえるのかもしれません。
 香港に久しぶりに来られたそうですが、いかがですか。建物が老朽化した? それはいえるかも知れません。香港は一九五〇年代から七〇年代にかけて今の風景が作られました。七〇年代に開発された建物はなかなか壊せないから、こうして古びているんです。なぜ取り壊せないかというと立ち退きを承諾させることが困難だから。例えば、ビルの上がカラでも下が店をやっていたら、建て替えしにくい。店の人には、長年その場所でやってきた信用と実績がありますから、店を移転して一からやり直すということがし辛いわけです。だから立ち退きを拒むわけです。そうやって立ち退きを拒む人が多いために開発が遅れるし、出るに出られない。そのことが実際、社会問題になっているんです。
 中国の高速鉄道は明日、九月二三日、香港に乗り入れます。これで中国人がさらにどっと入ってくるでしょうね。中国が香港化すると鄧小平は言っていましたが、今後は逆に香港が中国化されることになるでしょう。これからどんどん中国化が進むでしょうね。嫌だという人もいますけど少数派です。政治が中国の言いなりだと言って抵抗しても仕方ない。個人の力は小さすぎます。今後、香港の自由をいかに守っていくかが問題です。自由で人権が保障されているからこそ香港が存在するんですから」

 重慶大廈の近くの尖沙咀にあるカフェでひでさんに二時間ほどお話を伺った後、私は一人で一五分ほど歩き、スターフェリー(天星小輪)の乗り場にやってきた。建造して六〇年は経とうかという二階建ての小さな船。甲板のない楕円形の二階建ての家といいたくなる独特のフォルムをした船体。周りには耐衝撃用のタイヤがぶら下げられている。その船に乗るのは二・七香港ドル(三八円)。九龍半島と香港島の間にある流れがはやく交通量の多い海峡をゆくこの船。切符を買う券売機には大陸で使っていた電子決済のQRコードはない。現金主義。私は波形をした二香港ドルと〇・二香港ドル、そして普通の丸型の〇・五香港ドルのコインを入れて二等の切符を買う。プラスチック製のコイン型の切符(トークン)が出てきた。それを自動改札機に通して、五分に一回やってくるフェリーに乗り込んだ。煙突から煙を吐き出して、船は行く。

 進行方向には中環(セントラル)地区の摩天楼が見渡す限り、そびえ立っている。今も世界有数の金融センターである香港。尖沙咀側の老朽化した建物ばかり見ていて、香港は深圳に抜かれたと感傷的になっていたが、それが拙速であると思わざるを得なかった。中環の摩天楼の存在感。これこそが長らく世界有数の金融都市として発展してきた香港の矜持を体現しているように思えた。その風景を見ながら私は考えた。

 香港には長い時間をかけて培ってきたクレジットカードの文化がある。それにオクトパス・カードというすでに普及している、日本でいうスイカのような電子カードがすでに普及している。大陸で最も普及しているアリペイ(支付宝)やWeCahtPAY(微信支付)が香港でそう易々と普及するとも思えない。それは時間をかけて普及してきた支払い方(現金やクレジットカード、オクトパスカード)を変え、シェアを奪うことだからだ。共産党がイヤで逃げ込んできた人たちが多数いる、民主主義が根付いてきた香港が、共産党に支払いデータなどが回されるかも知れないシステムを使うとも思えない。古びていると思った建物にしてもそうだ。共産党の一党独裁ではない、ひとりひとりの人権や土地の所有権が認められた自由世界。そこで生きている人たちだからこそ、役人が開発すると決めて、住んでいる人の権利をないがしろにすることができないのだ。


 香港の人権と金融センターとしての矜持。一国二制度はその後も延長されるのだろうか。それともそのころには、香港人は自分たちを香港人と思わず、中国人としての誇りを持っていたりするのだろうか。




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