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深圳はなぜ大発展したのかを自分なりに探ってみる[2018年/深圳編その2/中国の高度成長を旅する#29]

闇市のような電気街の謎 深圳 

 一九九二年には存在した深圳中心部(南山、福田、羅湖、塩田)の中国本土側を分けるための境界はどうなったか。その後の経緯が鈴木さんの話からわかってきた。タクシーに乗って移動しているときのことだ。
「深圳にはタクシーが三種類あるんですよ。街と郊外両方を走る赤と青、そして郊外のみを走る緑。ちなみに青は電気車です。なぜこんな分け方をしているかというと、中心部(南山、福田、羅湖、塩田)という香港に面したその四区が経済特区だったからです。広東省には二〇一一年からいまして、当時住んでいたのは広州の西隣の仏山というところで深圳に来ることもありました。そのころはすでに地下鉄は四区の外へと延伸していましたし、道路の行き来も問題ありませんでした。特区と郊外の境界については二〇一四年には気がついていました。しかしタクシーの色分けについては、二〇一五年に深圳に住み始め、タクシーに乗るようになるまではよく知りませんでした」
 それを聞いて私はなるほどと思った。九二年に私が超えた検問というのは、中心部の四つの区とその外(鈴木さんの指摘する〝郊外〟)の境だということに気がついたからだ。
 爆発的に経済成長し、人口が増えた結果、深圳は四区と郊外を仕切ることをやめた。二〇一一年、深圳市は地下鉄の路線を四区の外へ延伸した。私が高速鉄道で降り立った深圳北駅もかつての検問所の外。駅ができたのは二〇一一年一二月のことだ。
「地下鉄を延長した時点で境界は事実上なくなりました。深圳には二〇一五年に住み始めたのですが、車で郊外から市内に入るとき、ごくたまに検問にひっかかることがありましたし、検問の名残りは感じています」
 タクシーの色分けに名残が残っていなければ、鈴木さんが境界があったことに気がつかなかったかも知れない。そうなれば、境界があったことを彼に言っても話が噛み合わなかったかもしれない。
[二〇一八年一月に境界は正式に廃止されたとの報道があった。さらには二〇一八年末時点で、緑タクシーは消え、99・99%青のタクシーしか走っていないという]

華強北は歩行者専用道路

 南山区を離れた私たちは、タクシーで再び東へ向かい、三〇分かけて福田区に戻ってきた。それは華強北という、東京の秋葉原と大阪の日本橋を合体させたよりも大きい、中国最大の電気街を見学するためだ。南北に通る電気屋街のメインストリートは歩行専用道路になっていてゆったりして歩きやすい。
「今は歩行者天国ですけど、二〇一七年のはじめまではしばらく工事をやっていました。道の両側にビルが並んでいますけど、その中にある二八のビルには合計約一万店の店が集結しています」
 歩行者天国の一番入口にある賽格広場というビルに入る。すると先ほどまでのゆったりとした雰囲気とは一転した。個人商店がひしめき合う、戦後闇市のようなごちゃごちゃと狭い電気屋街が現れた。途中階は吹き抜けになっているフロアを降りていく形で見学していく。

 LEDイルミネーション、電源タップ、電源ボックス、USBケーブル、インターフォン用のモジュール、老人用見守りガジェット、USBに繋がった犬の貯金箱、ダイナマイトや手榴弾形のモバイルバッテリー、スマホのカバー……。


 熱気は感じるし、こうしたジャンクまがいの物が売られている場所は嫌いではない。というか大好きだ。だが触手は伸びない。それは旅の途中だということもあるし、どうやって使ったらいいのか理解に苦しむグッズばっかりが揃っていたからだ。

 一階に降りてくると雰囲気が変わった。手巻きピアノと電子ドラム、そしてドローンという、見てみたいと思える魅力的な完成した商品が眼に入った。
「ドローンならば、取材に使えるかも知れない。訪れた場所を空撮すれば、後で、資料にもできるかもしれない。手巻きピアノにしたって娘のお土産になるかもしれないしな」とそんな考え方が浮かんだ。
  目的は買い物ではないので、先を急いだ。鈴木さんが次に連れて行ってくれたのは、華強電子世界(深圳一店)という、歩行者天国の西側のビルだった。ここは賽格広場よりもさらに闇市的であった。デスクトップパソコンのカバーを外すと中に入っている、触ると感電するんじゃないかと思しきコード類が何十本もひとまとめにして売られていたりする。使えるのか使えないのかわからないジャンク品と思しきものが、見栄えを気にせずに積み上げて売られていて、とにかく完成品がなかった。この混沌とした印象は秋葉原のラジオデパートに近い。そのラジオデパートもそうだが、見て回るのは楽しいが、素人が買い物する場所ではない。賽格広場にしても華強電子世界(深圳一店)にしても、なぜこんな、ケーブルとか基板といった部品やパーツ、そしてジャンク品のようなものばかり売られているんだろうか。

 その理由について、鈴木さんは説明してくれた。
「華強北は、電子部品やガジェットの卸売市場なんです。深圳に拠点を構えるハードウェアのスタートアップ企業もここで開発に必要な部品を小ロットで調達することができるんです」
 ではそもそもなぜこんな大規模な電子部品の卸売市場があるのだろうか。確かに電子部品の卸売市場があればスタートアップ企業にとっては便利ではあるが、私のような素人には、イマイチ響かない。というかなぜスタートアップは深圳に拠点を構えたのだろうか。スマートフォンのシェアが世界第三位の華為技術(Huawei)やドローンの世界でのシェアの七割を占めるDJIは深圳に本社があるそうだが、そうした企業が深圳から生まれたこととスタートアップが集まっていること、とてつもない規模の卸売市場が存在すること。これらはすべて関係するのだろうか。

  鈴木さんによるレクチャーのほか、『ハードウェアのシリコンバレー深圳』(藤岡淳一・著)、高須正和さんの深圳レポートなども参考にして、華強北のものづくり、もっといえば深圳の技術力のすごさの秘密について記すと次のようになる。


 一九八〇年に経済特区に指定されて以降、香港や台湾や日本といった国や地域の企業が進出、それらの国や地域による下請け工場が作られた。下請けなので、中国側から提供するものといえば、労働力のみであった。
 かつての日本がそうだったように、物づくりが得意でも、経済発展すると、賃金の安い国や地域に下請けの工場は移っていくものだ。日本の場合、韓国や台湾、香港に工場を移していく。年月が経ち、香港や台湾が経済成長していくと、今度は、香港や台湾は深圳をはじめとする広東省に工場に移していく。そうした状態は二〇〇〇年代前半まで続いていった。
 本来であれば、中国が経済成長し賃金が上がれば、さらに貧しい国へ工場が移っていくはずであった。ところがそうはならず、せき止められたダムのように工場が留まり続けた。
 そうしたことで、高度なサプライチェーンが深圳や広州に作られていったのだ。さらに二〇一〇年代に入ると、強力な製造能力を持ったエコシステム(企業間の事業連携協業)が成熟するに至った。


 では華強北に電子部品の卸売市場が作られたのはなぜなのだろうか。それについては高須正和さんが記した「深セン電気街の凄み、アキバやシリコンバレーを超える開発力」という記事を抜粋してみる。
「1990年代に入り、製造力は充分についた深センがなんとかして企画や開発から行う地場産業を作ろうと考えたときに、「企業同士が情報交換できるように、いろいろな部品が一ヵ所に集まり、自然と情報が交換される市場を作ろう」と、深センの産業グループ・賽格電子集団(ShenzhenElectricGroup:SEG)は東京の秋葉原を視察し、おそらく「旧ラジオ会館」「ラジオデパート」あたりをモデルにして、“1m売り場”と呼ばれる間口の小さい店がたくさん並ぶ構造の電気ビル「賽格広場(SEGPlaza)」を作った。(中略)賽格電子集団の目論見はある程度あたったのだろう、大量のモジュールがやりとりされることによって、深センから大量の電機メーカーが登場するに至った」
 ちなみに二〇〇八年には深圳で、スタートアップなどをサポートするための深圳矽递科技有限公司(Seeed)が設立されたことを走りに、それ以後、新興メーカーのハードウェア開発に拍車がかかったという。(「中国:深圳のスタートアップとそのエコシステム(Ver.)」/木村公一郎/2016年11月/ジェトロ・アジア経済研究所のサイトに掲載)
 以上の話を総合すると、政府が主導して物づくりを行わせたのではなく、深圳の産業グループが自発的にはじめたことを出発点にして、ハードウェアのシリコンバレーと言われるまでの地域へと発展していったことがわかる。もちろん深圳で起業した新興メーカーの中には失敗して消えていった企業は数限りないだろう。しかし失敗した企業がある一方、ドローンのDJIやスマホの華為技術といった企業はその分野において今や世界をリードしている企業も出てきたのだ。
 中国全体の経済成長は二〇一〇年代に入ると鈍化し、かつてのように一〇パーセントを超えることはなくなってきた。それまでは国家が投資し国中のインフラ設備を整えていくことで経済成長するという時代ではなくなってきたのだ。それはインフラが整ってきたことに加え、賃金が上昇していたということもその一因だ。
 経済成長の量よりも質を求める方針へとシフトするようになった中国は二〇一四年、「大衆創業、万衆創業」(大衆による起業、民衆によるイノベーション)というスローガンを発表、補助金制度を設けたり、コワーキングスペースを作ったりとスタートアップを応援する態勢が本格化した。さらに翌二〇一五年、「中国製造二〇二五」が発表され、二〇二五年までに半導体(キーパーツ。メモリやCPUなど電子機器の最重要チップ)の七割を国産化するという指標が示された。これらの発表を見ると、労働力よりも最先端技術によって国を発展させていこうという意気込みが伝わってくるし、そうしたイノベーションを牽引していくことが深圳という街に期待されているということがよくわかる。今後、深圳を中心にイノベーションが進み、中国がアメリカを凌ぐIT大国、技術大国になった場合、世界は中国にならった体制になって行くのだろうか。それとも中国の独裁体制が変質し根本から民主化したりするのだろうか。

チャイニーズドリームに賭ける日本人 深圳

 華強北の電子部品卸売市場をいくつか見学するタイミングで、私は鈴木さんが拠点としているオフィス兼工房へと案内していただいた。そこは华强北国际创客中心という、スタートアップが拠点を置くシェアオフィスだった。鈴木さんもまたスタートアップの一人として、華強北を利用し、試作品を作り、ハードウェアの開発を進めているのだ。

 このシェアオフィスは大手IT企業の出資を受けているそうで、オフィスの入口には壁一面ロゴとプレートで埋まっていた。百度、阿里巴巴、騰訊、マイクロソフト、アマゾン、eBayなどの協賛企業のロゴがそろっている。これらの企業がすべて出資しているかは不明だがコワーキングスペースのすごさは何となく感じる。そのロゴ群の左側には入居企業のプレートがたくさんあった。また別の壁には、この工房に所属する企業が作った製品がディスプレイされていて、丸いスピーカーのようなものや、AIスピーカーそして皿そのものといったものもある。これらはすべてインターネットと繋がっているのか素人にはよくわからない。

 その奥には蜂の巣のように個室オフィスがあり、3Dプリンターなどが気軽に使えるガラス張りの実験室も備わっていた。つまり下の卸売市場で必要なパーツを買い集め、実験を繰り返し、電子ガジェットの試作品をつくって行くのだ。このオフィスでは、ハードの開発だけでなく、デザインやマーケティング、コンサルティングや総務や投資といったものまで含まれていて、相互が補完しあえるように設計されている。こうしたオフィスは深圳に三〇〇ほどもあるという。

「ここには五月に入ったばかりです。IoTのチップが入ったダンベル(その後、バーベルから始めることになった)をただいま開発しています。これは持ち上げるだけで回数を数えたり、持ち上げるスピードを計測してトレーニング方法をアドバイスしたりします。日本国内にある24時間ジム(完全無人。システムで予約した後、来店。個室で一人トレーニングする。希望者は事務に登録しているトレーナーに教えてもらうことが可能)で利用してもらい、改良を進めているところです。そのほかオゾン発生器の専門メーカーから、オゾンセンサーの共同開発の委託を受けていたりもします」
 彼は物づくりによってこの深圳という、勢いのある場所でハードウェアの開発に取り組み、成功することを目指している。
「チャイニーズドリームですか。まあ、そういう言い方をされても仕方ないですね」
 消極的ながら、彼が認めるのは、結果的に現状がそうなっているからだ。彼は最初から物づくりがやりたくて深圳、いや中国へやってきたわけではないという。
 そもそもなぜ鈴木さんは深圳で物づくりをしているのだろうか。
「地元、浜松の機械メーカーで電気の設計をやっていまして、二〇一一年に広東省への駐在が決まりました。会社が広東省仏山に中国法人を設立することになり、すぐに手を挙げたんです。
 二〇代のころ、様々な仕事を転々としました。それとともに、旅行もたくさん行きました。ニュージーランドでワーキングホリティをしつつヒッチハイクで一周したり、北京や上海を旅行し中国の勢いを肌で感じたりしたんです。
 中国法人設立の際、すぐに手を挙げたのは、海外で住んだり働いたりすることに対し抵抗がなかったこと、勢いのある中国で働いたら面白そうだと思ったことが理由です。当時、中国にじっくり腰を据えて仕事するつもりでしたから、言葉を覚えようと休日は教室に通いました。
 ところが二年半が経った二〇一三年に会社から帰国命令が下ります。日本に戻ってこいと。
 そのときは中国で働いた方が面白いと思っていました。高度成長していて、すごく勢いがあるわけですから。世代的に私は高度成長はもちろんバブルの時代も知りません。だからそうした時代を体感してみたかったんです。そのときには中国人の同僚と普通に話せるぐらい言葉は上達していました。それもまたこちらに残った理由です。引き続き、広東省に住み続けることにしました。一方、会社は香港に設立しました。二〇一三年五月のことです。香港にしたのは登記上、その方が申請が通りやすかったからです。その後、日本や広州でビジネスをしましたがうまく行くことはありませんでした。
 そこで次に手がけたのが当時、流行っていた越境ECです。裕福な中国人は質の高い日本製品を欲しがる。かといっていちいち日本に来て爆買いできない。そうした人がネットで日本製品を買うだろうと。そこに勝機を見出したんです。ところが中国への輸出は日本の経産省の認可が必要だそうです。深圳に住む中国人が二〇一五年七月に立ち上げた越境ECの会社に秋ごろから関わることになり、そのタイミングで私は深圳へと引っ越しました。

 深圳に引っ越す前はお話しした通り、広東省に住んでいました。なので、まずは広州でパートナーを探すことを優先しており、実際、広州でも他にも組みたいと思う人たちを見つけていたんです。ただ、当時は深圳の彼ら二人組の方が魅力的に感じたんです。それに、自分の本気度を示すためにも深圳に引っ越すことを決めました。他の理由としては、自分の会社がある香港に近いこと。広州でビジネスしていて上手くいっていなかったので、環境を変えるという意味でも新しい街に行くのもアリかなと思ったんです。
 余談ですが、広州に住んでいるとどうしても深圳に対してネガティブなイメージの方が大きいです。これは香港も同じですが、地元の人の影響でしょうが、自分たちは昔からある街で、地元の人が多いので悪いことはできないし悪い人は少ない。けど、深圳のような新しい街はいろんなところから人が集まってくるので悪い人が集まりやすい。といった具合です。
 深圳は一昨年に広州のGDPを超え、去年香港のGDPを超えました。要は、このようなネガティブなイメージは激しい妬みを伴っているのだと思います。
 いずれにせよ、自分の中では三度目の正直というか、最後の賭けというか、とにかく何かを変えるしかないという思いで深圳に引っ越すことを決断しました」
 鈴木さんが組んだ二人は、「アリババのジャック・マーのように成功したい」という壮大な夢を持っていた。そんな二人と組んだことでその後、鈴木さんに大きな失敗をもたらしてしまう。以下、話を続けよう。

「私がこの会社に参加した時点で、深圳の郊外に約100㎡のオフィスがあり、彼ら2人の他に、従業員も数名いました。私は役員待遇ということで、本気度を示すためにお金も少し出しました。(この会社は香港法人があり、香港法人の株を買って役員になるという話でした。深圳法人に外国人の株主を入れると面倒なため、このような方法を取りましたが、最終的には香港法人の登記変更はされないまま終わりました。つまり、登記上は役員でも何でもないのですが、責任は役員レベルという最悪な状態でした。まぁすべて結果論ですが)
 話を戻します。ネット上に越境ECのショッピングモールを立ち上げたんです。私がやったのは日本からの商品の買い付け。これはうまく行きました。しかし相棒二人に物流・販売を担当してもらったところ、全然だめで、結局売れなかった。
 すると二人は『こんなこじんまりした所でやってるからうまくいかないんだ。規模が大きくないと投資が入らない』とか言い出して聞かなくなってしまいました。そして彼らの決断によって一気に10倍以上の広さの場所に引っ越し、従業員も新たに10名ほど雇い入れてしまったんです。まったく売り上げが無いにもかかわらずです。私はもちろん反対でしたが、名刺上は役員にはなっているものの、登記上の株主は彼ら二人だけで、実際の決定権は私になかったんです」
現地には現地のやり方がある。中国ではこういうものかもしれないという考えもあって、結局、鈴木さんは二人の意向に従って、事業を続けた。しかし早々に破局を迎えてしまう。事業規模を拡大したにもかかわらず売り上げは一向に上がらなったからだ。従業員の給料を払えたのは最初の一回のみ。三ヶ月後には停電となった。
「二人は負債をすべて私に押しつけて、姿を消しました。雇っていた元従業員たちの中で私を責める人はいませんでした。二人が雇っていたからなんですが、私自身責任を感じていたので、責められないことを逆に甲斐なく思いました。元従業員たちと私とで別々で彼ら二人を訴えました。私は一人だけで訴えて勝ったのですが、お客様に対しては私も一部賠償しました。失敗したことに対しては自分にも責任があると思ったからです。当時、様々な人から『日本人がいるから大丈夫だろう。と、思った』と言われ、ものすごく責任を感じました」

 結果的には勝訴するも、負債を背負い込んだ状態に大きな変化はなかった。ところが、捨てるものあれば拾う者あり。負債を背負い込んだ鈴木さんに手を差し伸べる人物がいた。
「困っている私を見かねたのか、香港在住の日本人社長がある仕事をくれました。今でもいろいろと目をかけてくれ、お世話になっている社長です。
 もちろん、その方からいただいたその仕事だけで現状がすべて解決できるわけではありません。ただ、こんな悲惨な状態になった自分でも目をかけてくれる人がいるんだなと。チャンスをくれる人がいるんだなと。だったら、もう一度一念発起して、最後までやり切ろうと。あと一年とはいわないけど、半年くらいは粘れるんじゃないかと。それでダメなら日本に帰ってサラリーマンに戻ろうと。今ここであきらめたら、何年か経った後に、なんであのときもっと頑張らなかったのか、もっとやれたんじゃないか。と、絶対後悔するなと」
 鈴木さんは自分自身への反省もあったりするのだろうか。
「中国人二人と組み、その二人がロクでもない人間だったのは間違いありません。だけど自分にも落ち度があったと思っています。要は、自分もロクでもないヤツだったからロクでもないヤツとしか組めなかったんだと。もし自分の能力が高く、人間的にも素晴らしく、信頼のおけるチームを要し、誰もが組みたいと思える人間であったのなら、もっといいチャンスに恵まれていたはずです。けれとも、自分の能力不足を棚に上げ、三人で組んでお互い欠点を補ない、長所を生かす(私は日本人なので日本のメーカーさんにモールのサプライヤーになってもらう。もう一人は中国人でECサイトでの販売が上手、もう一人の中国人は物流に詳しい。いくら売れても日本から中国にモノが入って来ないと商売できませんので。)という触れ込みでしたが、結局は甘えていただけなんじゃないかと。香港に会社をつくってからここまで3年強、ビジネス的にはまったく上手くいかず、そして、このような悲惨な目に遭っているのは、すべて自分の弱さ、甘さに原因があるんじゃないかと。ということに、ここまで追い詰められて初めて気づきました。
 当時は、今でも覚えていますが、いつも主催しているバドミントンの会では先に私が会場費を払い、その後、参加者から会費を集金するのですが、ある時はそのお金すらなく、先に会費をもらってから会場費を支払いました。このときの屈辱というか、悔しさは今でも忘れません」

 二〇一七年三月、鈴木さんは深圳に会社を立ち上げる。それが今の会社なのだという。
「ギリギリまで粘ろうと思って踏みとどまっているうちに、あることに気がついたんです。それは深圳での日本語/中国語の通訳が不足しているということです。そこで私は通訳のマッチングサイト(トラベロコ)に登録したり、自社サイトを立ち上げたりして通訳の仕事をするようになったんです。するとそのうち身を立てることができ、人をも雇い始めることもできました。通訳として私がやれているのは、お話ししたとおり、これまで失敗を含めた様々な経験をしてきたからだと思います。
 このように通訳として様々な工場に出入りしたり、電気街を案内し日本のお客様の仕入れサポートなどをさせていただいたりしているうちに、深圳のハードウェア都市としての魅力やすごさに気がつくようになりました。これを自分が活用しないのはもったいないと思うようにもなりました。
 そして余力が出てきたので今年(二〇一八)の三月にIdeagearブランドを立ち上げ、五月には今、入っているメーカースペースに入居しました。物を仕入れて日本で売るといったこれまでのやり方ではなく、作り手としてやってみたいと思ったんです。これまでプログラマーや電気設計士としての経験があったので、それを生かそうと思ったんです。
 振り返ると、日本に戻らずに深圳で頑張ってきてよかった。今では深圳というこの街に感謝しています。ものづくりにはすごくいい場所ですから。私は試行錯誤しているうちにこうなってきました。だけど色々やってくる中で、まさか通訳をすると思いませんでしたけどね」
 爆発的な成長を続ける深圳。この街には経済的な成長を終えて、長らく停滞している日本にはもはやなくなった成功のチャンスがある。もちろんそこにはすさまじいリスクが同居している。そんな刺激的で可能性に溢れるチャイニーズドリームを求めて、鈴木さんはあえてこの街に定着した。激動の深圳で、ときには大きな挫折をしながらも鈴木さんは今後もこの街で、成功を夢みて、もがき続けていくのだろう。

一〇数億人の幸福、その最大公約数

 鈴木さんと別れた後、深圳博物館に行ってみた。地下鉄の市民中心という駅が最寄なのだが、このあたりは一度も来たことがない。だけどそれもそのはずだ。九〇年代、この場所はまだ開発がされておらず、更地だったからわざわざ来る理由がなかったのだ。

 無料なので博物館の中へずかずかと入っていく。文化大革命の展示は照明が落とされた暗いトーンで統一されていた。改革開放の展示は一転して、明るく希望に満ちたムードで貫かれていた。この国が巻き返し豊かで幸福な時代に入ったのかっていうことが、書類や物品、蝋人形とジオラマ、映像や写真という大量の展示によって、具体的にかつリアルに表現されていた。

 まず眼に入ったのは鄧小平の発言であった。
「深圳的发展和经验证明,我们建立经济特区的政策是正确的(経済特区の設立という私たちの方針は正しい。深圳の開発とその経験がそれを証明している)」とあって、深圳の成功がその後、中国全土で高度成長を果たすことを暗示しているような気がした。
 鄧小平の目論見は、香港と広州の間にある深圳を開拓するところから始められた。一九七九年、改革開放政策の決定が報道された後、経済特区の開拓の展示が続いた。具体的には境界にフェンスが張られた後、蛇口地区の山がダイナマイトで破壊され、その土砂がダンプカーに乗せられて埋め立てられていく。そのような人民解放軍を動員して行われた〝開拓〟ぶりが迫力の映像と写真で表現されていた。

フェンスが張られて、経済特区が設置された

今の四区が経済特区だった

造成されていく

工員さんたち、なにげにお洒落だ

 一九八〇年代前半に入ると、香港の下請け工場が進出する。制服を着た若い女性工員の写真がどーんと壁に一面に展示されているのだが、よく見ると皆が皆まゆが整えられていてピアスをしていたりロングヘアをなびかせていたりとお洒落で色っぽい。彼女たちの写真を見ると、豊かになるために自分たちで選び取った未来への希望に満ちあふれた顔つきをそれぞれがしているのだ。当時は加工貿易によって力を蓄えている時期であったのだ。

 またその時期には、国際貿易ビルが建設されたのだが、このビルを作るための工事現場の様子や作業員の食事風景がわざわざ蝋人形とジオラマで表現されていて、説明にはわざわざ「三日で一階分を建設する。これが深圳スピードという言葉の由来となった」と記されていた。そのコーナーには、建設に使う様々な道具、左官道具、へら、溶接道具、労働許可証の現物。当時着ていた工事の作業員達の作業服、手紙、身分証明書の実物がそれぞれ展示されていて、すさまじい発展の始まりはこうした庶民たちの奮闘があったからだということを、感情に訴えかけるような展示がしてあった。
 一九九〇年代に入ると計画経済は完全に放棄され、実質的には開発独裁(社会主義市場経済)体制の時代へと入っていく。例えば、深圳に開設された証券取引所に証券を求めて人びとが殺到する写真が展示されていたり、中国で初めて土地の所有使用権の入札が行われた際に使われた木で作られたハンマーなどが展示されていたりした。
 深圳で作られた製品の数々も展示されていた。初期の頃は独自の技術力がなかったため、香港など深圳に進出した外国資本の工場が作った製品が展示されていた。少し時代が戻るが一九八〇年代に作られたスヌーピーのワッフルメーカー、ドライヤー、コーヒーメーカー、かわいくない熊のぬいぐるみやプラスチック製のペラペラのおもちゃ、オシロスコープ、手持ち電灯の実物船のラジコンなどをこの頃はOEM(注文側のブランド名で作られる受託生産)でつくっていた。

 一九九〇年代に入ると深圳の技術力が高まってきて、デスクトップPCや中華ワープロ、ブラウン管式テレビにCDプレイヤーといったものが作られ始めた。九〇年代半ば以降になると、初期の携帯電話、今となってはかなり分厚いラップトップコンピュータと電子的なものが作られるようになり、かつ下請けからオリジナルへと発展していった時期だ。これは華強北のマーケットが設置され、独自の技術力を高め始めた時期と重なってくる。ちなみにその時期、沿岸全体に経済発展が広がりつつあった。


 二〇〇〇年代に入ると深圳の技術はさらに発展し、独自の技術も持つようになって行く。携帯電話(山寨というコピー商品を振り出しに)が進化し、CDプレイヤーやCPUらしき半導体チップを生産するようになった。そして二〇一〇年代に入るとファーウェイのスマホやノートパソコン、中興通訊(ZTE)のモバイルバッテリーといった深圳に本社を持つ会社の電子機器が作られるようになった。また、ドローン(マルチコプター)やオズモ(撮影用のスタビライザー)、VRグラスといった日本にはもはやない製品もまた展示されていた。深圳には最先端技術を看板にする企業も出始めたのだ。
小さな漁村だった深圳からなぜ四〇年たって華為技術(Huawei)やDJIといった世界的なメーカー企業が現れたのか。この博物館で深圳の変遷振りを見たことでようやくわかった気がした。

携帯電話の進化

世界一のシェアを持つドローン

 場所はあくまで深圳に限られているのだが、この展示はまさに中国のここ四〇年の発展の経緯の総集編だった。もちろんそれは一九八九年の天安門事件や二〇〇〇年代半ばの反日デモ、広がる格差、少数民族の同化政策といったネガティブなことは、直接的にこの街に関係がということなのか。不自然なぐらいにその一切が省かれていた。
 その一方、政治家の指導の様子はさまざまと展示されていた。鄧小平のほかに習近平の父親である習仲勲、江沢民に胡錦濤、そして習近平と。中でも鄧小平に関する展示の力の入れ方はすごかった。改革開放の初期である一九八〇年代~九〇年代初頭、改革開放の設計者であり推進者でもある鄧小平がいかにこの政策に賭けていたのか。それが嫌というほどにわかる展示物が続いた。

蝋人形がリアル。鄧小平ランドといった感じ

 例えば彼が植樹したときのスコップ、彼をかたどった銅像のミニチュアのレプリカ、一九八四年に視察したときの黒塗りの高級車、一九九二年視察のときのトヨタのミニバス。彼が宿泊したときのベッドを含む部屋。これらが一五二センチという実物大の蝋人形とともにわざわざ展示されていて、偉大なる指導者の人となりが親しみやすく感じられるように展示されていて、彼の特設コーナーの部分はさながら〝鄧小平ランド〟といった様相だった。
 見終わった後で、私は思った。これは鄧小平以降の改革開放政策のプラスの面ばかり展示している一種のプロパガンダなのだと。だから無料なのだと。

 しかしだ。地球上の何分の一かを占めるこの国の人たちの幸せ。それを最大公約数考えた上で行った政策が、毀誉褒貶あるとはいえ、全体的に見れば大成功したということについてはまったく異論がない。
 もちろん時には冷徹だし、やっていることが理不尽だとも思える。特に貧しい人や少数民族の立場から考えると「ひどい」という一言しかなかったりもする。だけども最大公約数を考えると鄧小平が唱えてなおかつ軌道に乗せた、開発独裁しか軌道に乗せる道はなかったのではないか――。圧倒的な量の展示物を見ているうちに、ぐうの音も出ないほどに納得させられ、それ以外の発展の方法が思いつかなくなった。
 また、国内のインフラを整えまくっていた二〇〇〇年代の中国と、二〇一〇年代になって日本を凌ごうとするIT技術の高さを誇る中国というものが、この博物館に来ることで私の中でようやく繋がった。単にこの国は国内を発展させるだけのマッチポンプではなく、実態のある発展をしていたのだ。
 八〇年代、半導体や自動車といった高度な技術によって日本は世界を席巻した。その一方、アメリカは日本の技術力の高さの影響で経済的に落ち込んだ。しかし九〇年半ばに入るとIT技術によって一気に経済を盛り返した。今後、中国は八〇年代の日本のようにITイノベーション技術によって隆盛し世界をリードしていくのだろう。その旗頭が深圳であるということは間違いない。これほどの技術力を誇り、地元のしがらみがない深圳なのだ。今後も、鈴木さんのようにチャンスを求めてやってくる日本人が今後増えていくのかも知れない。


 私はその後、一九九七年以来、私は鄧小平の巨大な写真が交差点に飾られた鄧小平画像広場へとやってきた。広い道路のある交差点には、彼の顔写真とともに「堅持党的基本路線一百年不変」と記された巨大な看板が相変わらず地面に設置されていた。
 交差点には後輪にポリタンクをつけて走るガテン系のおじさんの自転車も、黄色いジャケットにパンツという強気なファッションの女性の自転車も見かけない。広場を覆いつくすようにタワーマンションや商業ビルが並び立ち、乗用車が渋滞し、道を埋めつくしていた。同じ場所を定点観測し、人類史上最速といわれる深圳の発展ぶりに私は思いをはせながら、しばらくその広場を眺めていた。

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